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伏見城の戦いと伏見城 【関ヶ原の戦い前哨戦】

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関ヶ原の戦いとなる約3ヶ月前の1600年7月18日、伏見城に40000とも言われる大軍が押し寄せ「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)となった。

石田三成徳川家康を討つために蜂起し、その趣旨に賛同した西軍はまず畿内の徳川勢力の駆逐を考えた。
攻め手は宇喜多秀家を総大将に、小早川秀秋が副将を務め、毛利秀元吉川広家小西行長長宗我部盛親長束正家鍋島勝茂大谷吉継松浦久信などそうそうたるメンバーで、のち9月15日に起こる「関ヶ原の戦い」の前哨戦としてはかなり大きな合戦となったのが、この伏見城の戦いである。

伏見城の戦い

守るは徳川家康の重臣・鳥居元忠を大将にした徳川家の家臣らで、佐野綱正、内藤家長、松平家忠、松平近正、安藤定次ら1800とされている。
徳川家康が鳥居元忠らに、わずかな兵しか残さずに上杉景勝の会津攻めへと向かったのは、石田三成らを挙兵させる狙いがあったからとも言われている。

挙兵した石田三成は、西軍の代表格となった毛利輝元の名で、伏見城の鳥居元忠に対して「降伏勧告」をしたが、西軍の使者は遺体になって戻ってきている。
唯一、北政所の兄の子である木下勝俊は降伏を受け入れて伏見城から退去したが、徳川家康より伏見城の死守を命じられていた鳥居元忠らは、降伏をかたくなに拒否したため、宇喜多秀家らは伏見城を包囲して攻撃を開始した。

この伏見城のピンチに、大阪にいた島津義弘は1000を率いて、鳥居元忠に加勢しようと伏見城へと迫った。
しかし、鳥居元忠は援軍が来るとは聞いていないと拒絶したため、島津義弘はやむを得ず、周りにいた西軍に加わる事になり、以後は石田三成らと行動を共にした。

堅固な防御態勢となっていた伏見城であったため、西軍は4万と言えども攻めがたく、伏見城への攻撃は進展しなかった。
そのため、水口城主・長束正家は、一計を講じる。
水口城がある場所は「甲賀」であり、長束正家に従っていた甲賀衆もいたが、伏見城にて鳥居元忠に協力していた甲賀衆もいた。
そのため、徳川家に味方している甲賀者の妻子を捕えて人質とし、伏見城内の甲賀勢に寝返るよう迫ったのである。

これにより、伏見城の甲賀衆は、伏見城内で放火したため、いよいよ伏見城は窮地に陥り、8月8日に鈴木重朝(鈴木孫一)が一番乗りを果たして、一騎打ちの末、鳥居元忠を討ち取ったとされる。
そして、伏見城は降伏・開城したが、多くの徳川家臣は自刃した。
その血がついた廊下の板が、京都・養源院の天井に再利用されており「血天井」として一般公開されている。

なお、石田三成が8月5日付で真田房州(真田昌幸)、真田豆州(真田信幸)、真田左衛門左(真田信繁)に宛てた書状によると「城内悉火をかけやけうちにいたし候」とあるため、この戦いにて伏見城のほとんどの建物が焼失したものと考えられている。

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伏見城(木幡山城)

なお、関ヶ原の戦いの際に、鳥居元忠が討死した伏見城は、木幡山伏見城と分類されるのが正解となる。

伏見城は、1592年に豊臣秀吉が最初に隠居後の「屋敷」を造営したのが始まりとなるが、その後、指月伏見城として大幅に改修した。
1594年からは城下町の町割や開発も促進され、武家屋敷、寺社、町家、道路などが整備された。

しかし、1596年閏7月12日の夜に慶長伏見地震となり、指月伏見城の天守などほとんどの建物が倒壊する大被害を受け、女﨟73名、中居500名が死去したとある。
豊臣秀吉は無事で、新たに北東の1kmにある高台の「木幡山」に新城を造営したため、この木幡山伏見城が3代目の伏見城で、それまでの伏見城とは異なる場所にあった。
そして、豊臣秀吉はこの木幡山伏見城にて没したのである。

ちなみに、地震で壊滅的被害を受けた指月伏見城は「幻の伏見城」として、その遺構は長年所在不明となっていたが、2015年6月にマンション建設地から長さ36mの石垣が出土し、指月伏見城の存在を裏付けるものとなった。

伏見城花畑跡にはかつて「伏見桃山城キャッスルランド」と言う遊園地があったが、閉園後は伏見桃山城運動公園として整備されており、模擬天守も市民運動により残されている。

たたじ、模擬天守は古くなり、耐震基準を満たしていないことから、建物内部への立入は禁止されており、無料ではあるものの外からの外観見学のみとなっている。

もともと、遊園地の建物であったこともあり、天守があった位置も全然関係のない所となっている。

なお、関ヶ原の戦いのあと、焼失していた伏見城は1602年に徳川家が再建し、1603年には伏見城にて征夷大将軍に就任した。

大阪の陣のあと、徳川家の拠点として二条城と伏見城の2城もあるのは意味が無くなり、木幡山伏見城は1623年に廃城となる。
徳川期の木幡山伏見城の天守は、1624年に二条城へと転用・移築されたと言うが、その二条城の天守も1750年に落雷によって焼失した。
他には伏見櫓、城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、築地塀、土塀などが福山城へと移築されている。

また、実際には伏見城の城門などが付近の寺院などに移築もされているので、見学したいところだが、さすがにちょっと多いので今回は周れなかった。
またの機会があるかどうかは不明だが、気になる要素として残しておきたい。

そして、現在、伏見城があった木幡山は、明治天皇の墓所である「伏見桃山陵」となっている。
そのため、見学できる箇所は非常に限られており、伏見城の遺構はほとんどわからないと言うのが現状である。

伏見城(木幡山城)への行き方・アクセスであるが、下記の地図ポイント地点の有料駐車場が一番便利。
地図は縮尺を変えてご覧願いたい。

電車の場合、JR奈良線の各駅電車で「桃山駅」下車して約1.2km、約16分だが、行きは坂道を登って行くことになる。

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