3分でわかる堀尾吉晴とは~仏の茂助と呼ばれた豊臣家最古参の名将

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堀尾吉晴(ほりお-よしはる)は、1543年に、尾張の土豪・堀尾泰晴(堀尾吉久・堀尾泰時)の長男として生まれました。
父は岩倉城主・織田信安の重臣で、1559年、堀尾吉晴は初陣を果たし、一番首を取ります。
しかし、その相手は織田信長であり、敗れた主君・織田信安は放浪の身となり滅亡し、堀尾家も浪人となったようです。

織田信長が尾張を統一すると堀尾吉晴は召し抱えられ、木下秀吉(豊臣秀吉)の家臣に加えられました。

以後、羽柴秀吉の忠実な家臣として、各地を転戦。
羽柴秀吉が長浜城主となると、長浜に100石を与えられました。
その後も戦功をあげ、堀尾吉晴は姫路にて1500石、のち丹波・黒江で3500石と出世していきます。




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1582年、備中高松城の水攻めでは、敵将・清水宗治の検死役も務めました。
本能寺の変となり、明智光秀との山崎の戦いでは、堀秀政中村一氏と鉄砲頭を務め、敵将を討ち取り、6284石にて丹波・黒石城の城主となりました。
更に翌年には大名となって17000石で若狭・高浜城主、1584年には2万石となり、田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次の宿老に任命され、佐和山城主となると4万石になっています。

1590年の小田原攻めでは、山中城を攻撃しますが、この時、長男ともされる堀尾金助が死去(戦傷死とも)。
徳川家康が江戸城に移ると、堀尾吉晴は12万石にて浜松城主となりました。

堀尾吉晴は武勇ある勇猛な武将ですが、温和で誠実な一面もあり「仏の茂助」と呼ばれて人望を集めました。
また、豊臣秀吉の重臣では最古参の部類であり、発言力も強かったようです。

その後、豊臣政権においては中村一氏や生駒親正らと共に三中老に任命されたようですが、1598年に豊臣秀吉が亡くなると、井伊直政を通じて徳川家康に接近しました。
そのため、前田利家石田三成の反発を受けたのか、1599年に堀尾吉晴は隠居して、家督を次男・堀尾忠氏に譲りました。
この時、徳川家からは5万石の隠居領を受けています。

1600年、関ケ原の戦いの直前、堀尾吉晴は三河・刈谷城主の水野忠重と、美濃・加賀野井城主である加賀井重望と宴会の席を持ちます。
このとき、加賀井重望と口論となり、水野忠重が殺害され、堀尾吉晴も17箇所の傷を負いますが、なんとか加賀井重望を返り討ちしています。
そのため、関ケ原の本戦には、子の堀尾忠氏が参じ、戦後、堀尾家は出雲・月山富田城にて24万石と加増されました。

この時、新たな城として松江城の築城を開始しますが、松江藩主となった堀尾忠氏が27歳で死去します。
そのため、堀尾吉晴は孫の堀尾忠晴を後見し、米子城中村一忠からお家騒動の鎮圧要請を受けると、援軍を出しています。

1611年、現在国宝にも指定されている松江城が完成するのを見て、堀尾吉晴は死去しました。享年67。

堀尾吉晴の墓は月山富田城の近くにある巌倉寺にあります。

堀尾吉晴の墓

堀尾吉晴の墓のある場所は、ちょっと分かりにくいですので、当方のオリジナルGoogleマップにて詳しい場所を記しさせて頂いております。

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