3分でわかる徳川家康とは~テスト対策にもなるポイント

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江戸幕府を開いた徳川家康(とくがわ-いえやす)は、幼少の頃には今川家の人質として育ちました。
そして、織田信長豊臣秀吉と言う強大な勢力に耐えつつ、見事に天下を取った訳ですが、どんな生涯を辿ったのでしょう?
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と言われる徳川家康を簡単に解説致します。

日本史のテスト(試験)で徳川家康が良く出てくるポイントは下記の通りです。

関ヶ原の戦い石田三成を破った東軍の大将は?
1603年に征夷大将軍に任命された人物は?
江戸幕府を開いた人物は?
大阪の陣で豊臣氏を滅ぼした人物は?
日光東照宮にて東照大権現として祀られている人物は?

なお、徳川家康は豊臣秀吉が死去した2年後である1600年の関ヶ原の戦いにて、西軍・石田三成に勝利し、天下を統一して江戸に徳川幕府を開きました。

1603年、徳川家康は征夷大将軍に任命されますが、1605年には息子・徳川秀忠に将軍職をゆずりました。
しかし、実権は握り続けていますので、この辺りテストで勘違いしていると点数が取れません。

大阪の陣には徳川家康も出陣して指揮を執りましたが、この時の徳川将軍は「徳川秀忠」となります。
1615年に最初の武家諸法度を出した将軍も、正解は徳川秀忠です。
参勤交代を制度化した徳川将軍は、そのあとの3代将軍・徳川家光となります。

ちなみに、参勤交代は1635年に武家諸法度にて制度化され、1万石以上の大名は、1年間江戸に住み、次の1年間は国元に住み、また次の1年間は江戸にと、江戸と国許と1年おきに交互で生活することになりました。
また、大名の妻子は、ずっと江戸に住むことを義務付けたのが、この武家諸法度となり、3代将軍・徳川家光のときに始まりました。

これにより、大名は、江戸と国との両方で暮らすための出費と、移動する際の参勤交代行列の出費がかさむことになり、藩の財政を圧迫しました。
ただし、江戸幕府からすれば、大名の財政が苦しくなると言う事は、謀反(戦争)を起こす軍資金を欠乏させると言うのが狙いで、結果的に平和な世の中が続く事となったのです。




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徳川家康が天下を取れた理由

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と言うように、徳川家康が天下を取れた最大の要因は「待ったこと」、すなわち、豊臣秀吉が死去するよりも「長生きした」と言う事です。

徳川家康は豊臣秀吉よりも6歳若いです。
そして、力を蓄えても行使せず、豊臣秀吉が死去するのを待ってから、天下取りに向けて動き出しました。
豊臣秀吉が織田信長の政策を参考にして政権運営したのと同じく、徳川家康も豊臣秀吉が取っていた政策を参考にして、万全な体制を整えました。
例えば、キリスト教の禁止令、妻子を江戸に住まわせる参勤交代なども、豊臣秀吉が原型として行っていました。
そして、織田信長や豊臣秀吉にできなかった事、そうです・・、徳川家康は長生きすることで、子の徳川秀忠への将軍職継承をうまく成し遂げ、最後には豊臣家を滅ぼしてから亡くなったのです。
その成果が、15代も続いた徳川将軍による「江戸幕府」の長期武士政権にと繋がりました。

詳しく徳川家康を知りたい方は、下記からもどうぞ。

権現様しかめ像(しかみ像)~徳川家康苦難の絵画
高野山の徳川家霊台
井田野の戦いの解説~松平氏菩提寺「大樹寺」との関係も【どうする家康】