九州での関ヶ原

熊谷直盛と熊谷直之~大垣城を守備した西軍の将

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熊谷直盛(くまがい-なおもり)は、若狭国守護である武田氏の家臣と考えられます。

同族とも言われている武将に熊谷直之(くまがい-なおゆき)がいますが、両名とも生年不明で、2人の関係も良くわかりません。
ただし、熊谷直之は武田家の老臣とあることから年齢は上だったようです。

熊谷直盛は内蔵介、熊谷直陳とも呼ばれます。

これに対して、熊谷直之は大膳亮、熊谷伝左衛門とも呼ばれました。

まず、熊谷直之は若狭・井崎城主(伊崎城、大倉見城)として武田元明に付いて織田信長に従属したようで、1570年には朝倉攻めに参陣するなどしています。
本能寺の変の後には豊臣秀吉に仕え、その後は関白・豊臣秀次の家臣となりました。
西三河高橋郡内にて950石とあります。

熊谷直盛も関白・豊臣秀次に従いました。

しかし、豊臣秀次事件に連座し、熊谷直之は1595年8月21日、京都嵯峨の二尊院で自刃しています。
豊臣秀次に謀反を勧めたと言う罪であるともあります。
辞世の句は「あはれとも問ふひとならでとふべきか 嵯峨野ふみわけておくの古寺」。
官位は従五位下でした。

一方、熊谷直盛は連座は免れたようで、のち豊臣秀吉の直臣となると、大友館主・大友義統が改易されたあとは、熊谷直盛(熊谷直陳)が15000石にて安岐城主となっています。
近江塩津城と合わせて35000石ともあります。

熊谷直盛(熊谷直陳)は、1597年の慶長の役では朝鮮にて、福原長堯太田一吉竹中重利、垣見一直、毛利高政早川長政と共に軍目付として全羅道・忠清道を転戦しました。

1598年、豊臣秀吉が死去すると、兵を撤収した直後に、加藤清正黒田長政から訴えられます。
そして、徳川家康の裁定により、1599年10月、謹慎となりました。
熊谷直盛は石田三成の妹婿であったため、その後は密かに佐和山城にいたようです。

1600年、関ヶ原の戦いの頃には旧領である安岐に復帰しており、叔父・熊谷外記や、熊谷治郎助(熊谷次郎助)が安岐城を城代として守っています。
熊谷直盛は勢田橋を警護したあと、子の熊谷勝兵衛と共に西軍の大垣城に入って籠城に加わりました。

関ヶ原の本戦で西軍が敗北した後も、大垣城にて籠城していましたが、一緒に守備をしていた相良頼房、秋月種長・高橋元種の兄弟らが裏切ります。
それにより、1600年9月18日、垣見一直、木村由信・木村豊統らと共に、熊谷直盛・熊谷勝兵衛も謀殺されてしまいました。

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なお、大分の安岐城は、中津城主・黒田官兵衛の軍勢の攻撃を受けています。

まず、安岐城下を黒田勢が素通りした際には、熊谷治郎助(熊谷次郎助)が追撃しましたが、黒田家の岡田三四郎に討ち取られていました。
大友義統ほ石垣原の戦いで破った2日後、再び黒田勢が来襲して安岐城が包囲されます。

この時、安岐城を守る熊谷外記は、自分一人が切腹する代わりに城兵の命を守って降伏すると決意します。
しかし、黒田官兵衛は「人を殺すために包囲しているのではない。降伏して黒田家に仕えたいと言うのでありば、本領を安堵して全員を助ける。」と回答。

熊谷勢は降伏して、多くの者は黒田家に仕えましたが、熊谷外記は暇を願い出て、主君・熊谷直盛がいる大阪に向かいます。
しかし、主人が既に命を落としたことを知り、九州へ戻ると黒田家の家臣となりました。

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