関ケ原の時の徳川家臣

松平忠吉とは~井伊直政と共に関ヶ原の火蓋を切るも

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松平忠吉(まつだいら-ただよし)は、父:徳川家康の3男として、1580年9月10日に浜松城にて生まれた。
母は側室のお愛の方(西郷局)で、徳川秀忠も生んでいる。

1581年、東条・松平家の松平家忠が病死すると、2歳でありながらその家督を継いで三河・東条城1万石となり、名を松平忠康と改めた。
これは、祖父・松平広忠と父・徳川家康の一字を拝領したことになる。

武田家が滅んだあとの1582年には、駿河・沼津城主として三枚橋4万石となった。
この時、松平忠康はまだ3歳である。

1584年、兄・徳川秀忠と共に人質として豊臣秀吉の元に赴く。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、父・徳川家康が関東の江戸城に移封となると、1591年に松平忠康は大阪城から徳川家に戻された。
そして、松平忠吉は1592年に10万石にて武蔵・忍城主となり、この時、13歳で元服して松平忠吉と名を改めた。
正室は、井伊直政の娘・井伊政子(清泉院)。

1597年には、唯一の子・梅貞大童子が誕生したが生後16日で早世している。

1600年、関ヶ原の戦いでは、21歳になっていた松平忠吉が東海道の総大将を任され、福島正則ら外様大名を率いて西上。
本戦では井伊直政の後見を受けて初陣を飾る。
この時、先陣だった福島正則を出し抜いて宇喜多秀家に鉄砲を撃ちかけ、井伊直政と共に開戦の口火をきるかたちとなった。
また、「島津の退き口」として名高い、戦場から離脱する島津豊久を追撃し、頭に傷を負いながらも討ち取るなど、初陣にも拘わらず大功を挙げた。
ちなみに、井伊直政も負傷している。

そして、論功行賞にて尾張と美濃の52万石と大出世。
清洲城主となり、左近衛中将も任官した。

父・徳川家康は、関ケ原に遅参した徳川秀忠を廃嫡し、この松平忠吉を後継にしようと、一時考えたとも言われている。

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容姿端麗の美男子で、才能に恵まれ人望も厚かったとされ、このように、徳川家康の子として出世していった。
兄・徳川秀忠が2代将軍になると、松平忠吉は将軍補佐役となっている。

しかし、関ヶ原の戦いで負傷した傷がもとで1607年3月5日、江戸の屋敷にて死去した。享年28。
悪性の腫れ物があったとも記されている。

松平忠吉には嗣子がいなかったため、清洲藩は弟・松平五郎太(徳川義直)が継いでいる。
同母兄の徳川秀忠は、松平忠吉の死を非常に悲しんだと伝わる。

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