西軍の関ヶ原史跡

大垣城の歴史と大垣城の戦い~大垣城訪問記

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大垣城(おおがきじょう)は連郭輪郭複合式平城で、最盛期の規模は現在の敷地の広さからは想像もできない、4重にも水堀を巡らした総構えの城だったようです。
大垣城の別名は麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも、牛屋城とも呼ばれます。

最初に大垣城を築城したのは1500年で、竹腰尚綱が揖斐川(牛屋川)の東にある牛屋に築いたとも、又は1535年に宮川安定が大尻に築いたとも、諸説あります。
いずれにせよ、この頃の名称は「牛屋城」です。

1544年、織田信秀が牛屋城を落とすと、織田信辰を配置しました。
大垣の地は美濃と近江を結ぶ最重要拠点でしたので、その後も織田家と斎藤家で奪い合いとなります。
そのため、1549年には、斎藤家が奪還したようで、竹越尚光が城主を務めています。
その後、1559年には美濃・楽田城から氏家卜全(氏家直元)が城主となって、堀や土塁を改修し、松の丸を増築するなど、総囲いの様相となった模様です。
しかし、斎藤龍興の治政は安定せず、1567年には織田信長の美濃攻めとなりました。
この時、氏家卜全(氏家直元)は織田家に内応したため、しばらくは氏家卜全(氏家直元)、死後は氏家直昌が城主を務めました。

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ちなみに、氏家直昌は、1573年、一乗谷城の戦いにて、斎藤龍興を討ち取っています。
織田信長の死後は、豊臣秀吉に仕えましたが、1583年に氏家直昌が死去すると、跡を継いだ氏家行広は、美濃・三塚1万5000石に移封となりました。
代わりに大垣城主となったのは、池田恒興で合計13万石です。
しかし、翌年に徳川家康と豊臣秀吉が戦った、小牧長久手の戦いにて、池田恒興と嫡男・池田元助は森長可と共に討死します。
その為、次男・池田輝政が家督を継いで大垣城主となりましたが、1585年には岐阜城にと移り、大垣城には加藤光泰が4万石にて入りました。
しかし、すぐに豊臣秀吉の勘気を被って領地を召上げられ、一柳直末が3万石にて大垣城主となっています。

ただし、1586年11月29日に発生した天正地震で、大垣城の建物は倒壊・焼失したとの事です。
蟹江城も全壊、長浜城も天守が倒壊し山内一豊の娘が圧死、越中の木舟城も倒壊して城主らが死亡、飛騨の帰雲城は背後の山が地滑りして埋没し城主ら500人が行方不明となる大惨事でした。

その後、一柳直末が復興に努めますが、1590年の小田原攻めの際に、山中城の戦いにて討死すると、その後には伊藤盛景が大垣城主となっています。
その伊藤盛景が、1594年に望楼型の天守を建築したとされています。
1599年に伊藤盛景が死去すると、子の伊藤盛正が34000石にて跡を継ぎましたが、1600年に「関ヶ原の戦い」となります。

関ヶ原の戦いの前に、石田三成は、一時、大垣城に入って「本陣」としています。
この時、伊藤盛正は一度断りましたが、結局は大垣城を石田三成に提供し、美濃・今村城へ退去しました。

そして、伊藤盛正は関ヶ原の戦いの本戦では、最初、松尾山城に陣取りましたが、あとから来た小早川秀秋によって追い出されています。
ただし、西軍として戦ったため、伊藤盛正は改易されて所領を失い京都で浪人。
のち福島正則によって助けられて、大坂の陣のあとには、加賀・前田藩にて2000石となりました。

大垣城の戦い

石田三成は1600年8月10日には大垣城に入り守りを固めました。
9月14日昼に徳川家康が美濃赤坂の岡山に本陣を置くと、前哨戦となった杭瀬川の戦いで勝利します。
このように当初は大垣城にて徳川勢に抵抗しようと考えていましたが、9月14日夜、主力部隊を関ヶ原に展開させます。
そして、大垣城には福原長堯を大将に、垣見一直、熊谷直盛、木村由信(木村宗左衛門)・木村豊統ら7500を残しました。
本丸は福原長尭(福原直高)と熊谷直盛が守り、二の丸は垣見一直、木村由信(木村宗左衛門)も木村豊統、相良頼房
三の丸は秋月種長、高橋元種らが入っています。
なお、守備した武将の一人に山田去暦なる者がいて、その娘・おあんが書き残した「おあむ物語」が大垣城の戦いの様子を物語っています。
落城寸前に「たらい」に乗って脱出したそうです。

9月15日、関ヶ原の戦いにて、西軍・石田三成らが決戦の火蓋をきる直前、9月15日払暁(明け方)に、徳川勢(東軍)の水野勝成、松平康長、西尾光教、津軽為信らが、大垣城の三の丸を攻撃開始し、三の丸が落ちます。

関ヶ原の本戦では、石田三成は敗走し、大垣城は敵地に取り残されました。
そのため、翌日16日夜には、相良頼房、秋月種長・高橋元種兄弟らが水野勝成の内応に応じて、9月18日に軍議をしたいと垣見一直、木村由信、木村豊統、熊谷直盛、木村勝正らを呼ぶと謀殺しました。
こうして、大垣城にて引き続き抵抗したのは臼杵城主・福原長尭(福原直高)だけとなるも、引き続き籠城を続けています。
しかし、城兵の逃亡も相次ぎ、徳川家康からの使者・西尾光教の説得を受けて9月23日、松平康長に降伏し、大垣城を開城しました。
この際、石田三成から授けられていた名刀が、水野勝成の手に渡っています。

福原長尭(福原直高)は、和議の条件どおり、剃髪して出家すると、伊勢・浅熊山にて蟄居しますが、結局は自刃させられました。(殺害されたとも)

その後の大垣城

関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は大垣城に5万石にて石川康通を入れると、大垣藩が成立しました。

1620年に下総・関宿藩主である松平忠良が5万石で大垣藩主となった際に、それまであった望楼型の天守を複合式層塔型3重4階に改めたようです。
各写真はPC・タブレットの場合、クリックすると拡大致します。

その後、1635年には戸田氏鉄が10万石にて大垣城主となっていますが、いずれも徳川家の譜代大名ですので、大垣城の重要性が伺えます。
下記は天気悪いですが、天守からの眺めです。

なお、戸田家が幕末までそのまま大垣藩を継承し、現在に至る大垣の礎を築きました。

下記の写真は、治水事業などに大きな貢献をした、戸田氏鉄の銅像で、大垣城の西側にある大垣公園にあります。

現在の大垣城は、本丸の石垣と、水門川として外堀の一部のみが残っています。

1620年に改築された天守は、昭和になっても現存し「国宝」にも指定されていましたが、大変残念な事に、1945年(昭和20年)7月29日の大垣空襲にて、天守や櫓などが焼失しました。

ちなみに、郡上八幡城は、1933年(昭和8年)には、当時としては珍しい「木造」にて天守を再建しましたが、建物として参考にしたのは大垣城の天守でして、大垣城そっくりの模擬天守となっていました。
そのため、現在の大垣城天守を1959年(昭和34年)に復元した際には、今度は逆に、郡上八幡城の天守を真似て、大垣城の天守外観が作られています。
ただし、現在見学できる大垣城の天守は、鉄筋コンクリート製で、窓も観光の為に大きくなっています。

野面積の石垣は「石灰岩」との事です。

現在の「東門」は、大手、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰の口、小橋口とあった「七口之門」の1つ「柳口門」で、天守が復興された際に、現在地に移築されました。

戦前では国宝だった艮隅櫓(うしとらすみやぐら)も復元されていますが、全盛期には10以上の櫓があったとされます。

大垣城の天守内部は、現在「資料展示」されており、写真撮影が許可されています。

大垣城の駐車場

大垣城じたいには、駐車場はありません。
その為、周辺の民間駐車場(100円パーキング)がお勧めです。
一番近くて便利な駐車場は、下記のポイント地点となりますが、小生が訪れた平日昼は「満車」でした。

そのため、もう一つ便利なコインパーキングに止めました。
下記の「関ヶ原マップ」に掲載させて頂いております。

東京三菱UFJ銀行の近くです。
なお、大垣城の付近は「一方通行」が多いのですので、曲がる際にはご注意願います。

小原鉄心邸跡

「小原鉄心邸跡」の石碑が上記、銀行近くの有料駐車場に建っていました。

小原鉄心は、幕末の大垣城代を務めた、戸田家の家臣で、明治新政府では「参与」にもなっている優秀な人物です。
鳥羽伏見の戦いでは、大垣藩兵は旧幕府軍として戦いましたが、その後の戊辰戦争では、新政府に恭順し大垣藩は東山道の軍勢に加わっています。

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