関ケ原の時の徳川家臣

酒井重勝と酒井重忠とは~徳川家の槍奉行と河越城主

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酒井重勝は1549年生まれで、通称は酒井与九郎または酒井作右衛門尉重勝とされます。

1653年、三河一向一揆の際に、酒井重勝は徳川家康と敵対しました。
その後、徳川家の家臣に戻ると、1572年、武田信玄との三方ヶ原の戦いにて、徳川家康が浜松城へ退却した際に貢献しました。

しかし、1578年3月、浜松城を出陣して駿河・田中城を攻めた際に、内藤勘左衛門、熊谷小市郎、小栗叉市と共に、城壁へと近付いたところ、伏せていた敵兵の反撃を受けました。
そして、敵を田中城の中へと追い込む活躍をしましたが、命令を受けていなかった抜け駆けだったため、軍律違反を問われます。
徳川勢が、田中城の外郭を破ったあと、牧野城へ帰城させられると、酒井重勝ら4人は蟄居処分となったようです。
ただし、3年後には許されました。

1582年、本能寺の変のあと、徳川家康の伊賀越えに従った家臣34名の中にも、酒井忠次と共に酒井重勝の名があります。

1584年、小牧・長久手の戦いでは「鎗奉行」として活躍。

大久保忠世鳥居元忠・平岩親吉・岡部長盛らに従って出陣した1585年の上田城の戦いでは、敗走する徳川勢の中、大久保忠世、平岩親吉と酒井重勝は踏みとどまって戦っています。
この日の合戦で、真田勢の首を取ったのは酒井重勝(酒井与九郎)だけであったともされ「酒井崩れ口の高名」として知られました。

その後、長柄奉行を務め、1590年に徳川家康が江戸城主となると、1593年に武蔵比企郡の福田、岡部、上総山部郡・土気(とけ)に、合計2000石を与えられて徳川家の旗本となります。

1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川家康本陣にて村串与三左衛門と共に旗奉行(槍奉行)を務め、使番も兼任したようで、その後、三河・寺部城主として5000石になったとも言われます。

晩年は、伏見城の御天守番を務め、1613年5月伏見にて死去しました。享年65。

旗本酒井氏の陣屋跡は、埼玉県比企郡福田村の成安寺を含む周辺で、成安寺は酒井氏の菩提寺となっており、酒井家歴代墓所があるそうです。

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酒井重忠

なお、徳川家の譜代家臣・酒井正親の次男ある西尾城主・酒井重忠は、徳川家康が伊賀越えした際には本国にいました。
ただし、徳川家康一行が伊勢まで逃れてきた際に、白子で酒井重忠が出迎えて船に乗せています。
この酒井重忠は、1590年に徳川家康が関東に移封されると、武蔵・川越城主として1万石となっています。
それらを考慮しますと、鎗奉行の酒井重勝と、河越城主となった酒井重忠とは「同族」と推測できます。

川越城主・酒井重忠は、1592年からの朝鮮攻めでは江戸城の留守居役を務めました。

そして、1600年の関ヶ原の戦いでは本戦に参加したとされ、その後は近江・大津城の守備を担当しました。
これらの功績で、上野・厩橋城主として3万3000石になっています。

1614年からの大坂の陣では、江戸城の留守居役として、兵糧輸送の責任者などを務めました。

酒井重忠の子は、酒井忠世です。
酒井忠世は徳川秀忠の筆頭年寄となり、徳川家光のときには年寄衆に加わっています。

ちなみに、酒井重忠の弟・酒井忠利は別家して取り立てられ、川越藩主のあと、江戸城留守居・老中となり、その酒井忠利の子・酒井忠勝は老中・大老となり、小浜藩11万3千石と出世しています。

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