長崎の出島と江戸幕府の禁教令と鎖国制度の流れ

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長崎出島(でじま)ができた経緯と出島の歴史を調べてみましたので、よろしければ、ご覧いただけますと幸いです。

関ケ原の戦いを制した徳川家康は、江戸幕府を開いて、当初は西洋との貿易を重視します。

豊臣秀吉がイエズス会などによる日本人などのアジア人の奴隷貿易を憂慮するなどして、1596年に「禁教令」(きんきょうれい)を出します。
この時、弾圧されたフランシスコ会も、1603年には徳川家康・徳川秀忠に謁見して、東北などでの布教許可をもらっていました。
江戸幕府としても貿易をしたかったからですね。
そして、オランダ、イギリスに親書を送った結果、オランダが1609年に平戸に商館を設立しています。




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続いて、1613年にはイギリスも平戸に商館を満ちますが、オランダ・イギリスも、中国に拠点が無かったので、日本に輸出する品はあまりなかったと言います。
その結果、イギリスが1623年に日本から撤退します。
オランダは継続していますが、貿易と言うよりは日本とのつながりを維持したいと言う意図だった模様です。

この間、1608年11月には日野江城主・有馬晴信がマカオに派遣した朱印船の日本人乗員が襲撃されて48名もの死者が出る事件が起きます。
マカオのポルトガル人で日本航海司令官であったペソア司令官が弁明しようと長崎に入港し、駿府城にて徳川家康に会いたいと言いますが、幕府から仇討の許可を得た有馬晴信は、1609年に長崎へ軍勢を派遣します。
生命の危険を感じたペソアは、船にこもると積荷を載せたまま出港の準備を始めます。
そのため、長崎奉行の長谷川藤広(長谷川左兵衛藤広)も加わって、4日間の戦闘となりました。
最後に船が炎上したペソア司令官は、火薬庫に火を放って商船を爆破させ自殺します。
(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件、マードレ・デ・デウス号とも)

ペソア司令官のデウス号撃沈と言う大功績となった有馬晴信は、鍋島直茂の所領となっている旧領三郡の復活を幕府に願い出ます。
その斡旋をすると言う、本多正純の家臣・岡本大八が有馬晴信に接近して、賄賂をもらったとされる「岡本大八事件」も発生しました。

このような経緯もあり、西洋との貿易も思ったより不調だったことから、徳川幕府はキリスト教の禁止を行い始めます。
江戸幕府は慶長17年(1612年)3月21日に「慶長の禁教令」を出しますが、これは江戸・京都・駿府など幕府の直轄領に対してのみでした。
しかし、岡本大八事件で改易(領地没収)されたキリシタン大名・有馬晴信が切腹となり、翌年には禁教令を全国に広げます。
以心崇伝が考えたバテレン追放令も発布され、長崎と京都にあった教会は破壊され、宣教師や高山右近らは国外追放されました。

そして、徳川秀忠は、1616年に最初の鎖国令を出します。
鎖国(さこく)と言うのは、外国人が日本に立ち寄ったり住むことを禁止する、国を鎖す(とざす)という意味です。

そんな中、中国にも拠点を持つポルトガルとの交易は有効であったため、ポルトガル船の来航はありました。
そのポルトガル人を管理する目的で作られるのが長崎の「出島」と言う事になります。
ポルトガル人とは貿易をしたいけど、日本国土に立ち入られるのを嫌ったため、石嶺匠、高島四郎兵衛ら長崎の豪商らに命じて「出島」と言う、人工の島を1634年から作らせた訳です。
そして、出島は1636年に完成しますが、幕府のキリスト禁止令も厳しくなっていたため、1637年には島原の乱にもなりました。

このように、徳川幕府が唯一「貿易」を許したのは、最初にポルトガルでしたが、キリスト教は幕府を揺るがす元凶と考えられるようになり、1639年にポルトガルも追放されます。
約2年間、出島は閑散としますが、1641年から1859年まではオランダ貿易が出島で行われるようになりました。
オランダは貿易に宗教を持ち込まないと約束したからです。




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出島

その国の史跡にもなっている出島(でじま)は、江戸時代「鎖国」によって閉ざされた日本にとっては、長崎の出島は、唯一欧米に開かれた窓口でした。

出島

現在の出島は長崎市などによって、観光整備されており、年々良くなってきています。

長崎の出島

基本的には、季節風を利用して、毎年2隻のオランダ商船が来日していたと言います。
来航した船舶はだいたい4ヶ月間滞在したようで、その間は、オランダ人などのヨーロッパ人、船乗りのマレー人もいて賑わったそうですが、出島から出ることは禁止されていました。

下記はマレー人の子供が出島で「バトミントン」をして遊んでいたと言う記録があることから、出島は日本におけるバトミントン伝来の地とされています。

バトミントン伝来の地

しかし、船がいない間の出島には、商館長(カピタン)、次席商館長(ヘトル)ら外国人の滞在は約15名ほどだっとと言います。
なお、日本人は100名以上が出島で働いていたようです。

出島

また、オランダ商館長は毎年、江戸城まで出向いて将軍に贈り物を献上しました。

出島

オランダがナポレオンに征服されると、本国からはオランダ国旗が消えましたが、世界で唯一、出島だけにはオランダ国旗が掲げられていたと言います。

出島

幕末に差し掛かった1817年になって、日本に旅した最初の西洋人女性「ティティア」(ブロンホフ夫人)を見た長崎の人々は驚愕したとされ、町の絵師達たちは彼女の絵を描き、西洋人形を制作しました。

出島

明治に入り出島の周りは埋め立てられてしまっていましたが、現在は、扇状の堀も再現され、出島の中には商館長次席が住んだ「ヘトル部屋」、商館員の食事を用意した「料理部屋」、オランダ船長が使用した「一番船船頭部屋」、砂糖や蘇木を収納した「一番蔵」「二番蔵」、商館長宅「カピタン部屋」、日本側の貿易事務・管理の拠点だった「乙名部屋」(おとなべや)、砂糖や酒を納めた「三番蔵」、拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)など出島の街並みが再現されています。

長崎・出島

出島への入館は有料で、営業時間は朝8時~18時(延長時は19時まで)となっています。
東ゲートと西ゲートと、両側から入れますが、入場料の支払いには、クレジットカードや電子マネーも使えます。
また「出島商館員」と称した年間パスも、そんなに高くないので、記念に商館員として入園するのも良いかと存じます。

出島のアクセス・行き方や駐車場情報などは、下記をご参照願います。

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