長宗我部氏と十河氏の大戦~中富川の戦い
織田氏と長宗我部氏戦国時代・中富川の戦いに至る経緯は、織田信長の勢力拡大(四国制圧)が絡んでいたが、最初から両氏の関係は険悪なものではなかった。長宗我部元親は、明智光秀の重臣・齋藤利三の妹を正室として娶ると、これを伝手に織田信長に接近。嫡男...
織田氏と長宗我部氏戦国時代・中富川の戦いに至る経緯は、織田信長の勢力拡大(四国制圧)が絡んでいたが、最初から両氏の関係は険悪なものではなかった。長宗我部元親は、明智光秀の重臣・齋藤利三の妹を正室として娶ると、これを伝手に織田信長に接近。嫡男...
京極高次京極家は、北近江守護を務めた名門だったが、戦国時代に入ると浅井氏の下刻上によって衰退を余儀なくされたが、京極高次の妹・竜子が豊臣秀吉の側室となり寵愛を受け、京極高次も25歳で淀殿の妹・初を娶った。1590年(天正18年)自分の周囲の...
上月城とは標高190mの荒神山に築かれた上月城は、鎌倉時代末期に赤松氏の一族だった上月景盛が築城され、「嘉吉の乱」で滅亡するも播磨・美作・備前の国境に位置していたため軍事拠点とされ、これまで数々の攻防が繰り広げられた。戦国時代になっても上月...
「中国攻め」と播磨征伐室町時代より守護・赤松氏によって統治されてきた播磨国。戦国時代になると、これまでの家臣や赤松一族が台頭してきたことで、他国と同様に半独立状態で数郡を有する者が増え続けた。その中でも赤松一族の別所氏が、大きな影響力を持つ...
九州から遠く離れた京では、織田信長の天下布武が現実味を帯びてきていた。将軍・足利義昭を京から追放、東海・機内・北陸・中国などを支配下に治めると、これまでと異なる巨大な城「安土城」を琵琶湖湖畔に築城して居城とした。そして、中国の毛利、越後の上...
台頭する龍造寺隆信九州の西にある肥前国内で頭角を現してきた龍造寺隆信。龍造寺軍の侵攻を察知した肥前国・平戸の松浦鎮信は、九州北部から西日本にかけて強大な勢力を誇る大友宗麟に救援の依頼をした。大友宗麟は、直ちに唐津城・波田氏に救援を命じるが、...
日本三大奇襲戦の一つである「厳島の戦い」は、兵力で圧倒的に不利だった毛利軍が陶晴賢の大軍に大勝利を治めた戦いで、毛利元就は西国の大大名として飛躍していく事となる。大内氏との決別大寧寺の変で、主君・大内義隆を自害に追い込んだ陶晴賢は、新当主に...
大内氏の弱体化「西国随一」と謳われた大内義隆は、第一次月山富田城の戦いで大敗、撤退時に後継者・大内春持が溺死したことで政務の意欲を失っていった。また、大内義隆の命によって武断派ではなく文治派が政務の中心を担ったことで、両派の争いが拡大して大...
愛知県豊明市にある沓掛城(くつかけ-じょう)と言えば、桶狭間合戦前夜に今川義元(いまがわ-よしもと)が宿泊したと言われる城として有名で、現在では城址公園として整備されています。こちらのサイトでも沓掛城はたかだ様によって既に紹介されていますの...
1560年、桶狭間の戦いにて織田信長が今川義元を討取ると、松平元康(徳川家康)は岡崎・大樹寺ほ経て三河・岡崎城に復帰。さっそく三河統一に着手するが、三河・吉良氏の吉良義安と駿府での人質時代に仲がよかったこと、そして吉良義安の旧領を支配して今...
石見銀山の争奪戦国時代の1557年(弘治2年)厳島の戦い、防長経略で大内氏(陶氏)を討伐したことで、周防、長門を併呑した毛利元就。安芸の国人領主から安芸、備後、周防、長門を治める中国地方の有力大名となる。衰えることのない勢力拡大は、尼子氏の...
尼子氏の衰退と大内氏の出雲遠征尼子氏の衰退1540年(天文9年)出雲国主・尼子晴久(詮久)は、反尼子氏という姿勢を明確にした安芸の国人領主・毛利元就を討つべく安芸(吉田郡山城)に侵攻した。1541年(天文10年)尼子軍は長引く攻城戦で苦戦を...