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京極高次
京極家は、北近江守護を務めた名門だったが、戦国時代に入ると浅井氏の下刻上によって衰退を余儀なくされたが、京極高次の妹・竜子が豊臣秀吉の側室となり寵愛を受け、京極高次も25歳で淀殿の妹・初を娶った。
1590年(天正18年)
自分の周囲の女性のおかげで近江八幡山城2万8千石の城主となり、さらに義妹の江が徳川秀忠の正室として嫁いだことで、1595年(文禄4年)に大津城6万石に加増された。
このことから、妻や妹の尻の光で出世したと揶揄され、世間では蛍大名と呼ばれていたが
豊臣政権下では皆が羨むような出世を着実に歩んでいった。
1598年(慶長3年)
天下人・豊臣秀吉の没後、政権内では徳川家康が影響力を持ち始めたことで石田三成との対立が激化していくと、高極高次の元に、徳川方と反徳川方からの使者が頻繁に送られてきた。
それには妻・初や妹・竜子などの影響力も関係していたが、大津城および城下町が軍事的に経済的にも重要な拠点であることが最も大きな理由であった。
それだけに京極高次の立ち位置は非常に微妙となり、どちらを選択すべきか大きな岐路に立たされていた。
この大津城だが、二の丸・三ノ丸は内陸側、本丸は琵琶湖に面した水城で、湊の機能も担っており、城下には東海道・中山道・西近江路が束ねられ、上方を結ぶ交通の要衡となっていたことからも非常に重要な拠点であることが分かる。
会津征伐
1600年(慶長5年)6月18日
徳川家康は、五大老の一人・上杉景勝が豊臣家に反逆の恐れありとの大義名分を掲げると、諸大名に賛同を呼びかけて会津征伐へと乗り出した。
この時、徳川家康は京極高次の大津城を訪ねると、修繕費として白銀三十貫を与えただけでなく、竜子や初とも対面していた。
1600年(慶長5年)7月11日
佐和山城で蟄居生活を送っていた石田三成は、会津征伐に従軍しようとしていた大谷吉継を迎えると、徳川家康討伐計画を包み隠さず打ち明けた。
当初、石田三成に賛同することを渋っていた大谷義継だったが、最終的に石田三成を受け入れた。
1600年(慶長5年)7月11日
石田三成は、自分の計画に賛同する増田長盛、安国寺恵瓊らを佐和山城に呼ぶと徳川家康討伐の会議を開いた。
そして、反徳川家康の諸大名を集めるため、大坂の前田玄似、長束正家らの奉行衆に公文書作成を依頼し、反徳川家康軍(西軍)の大将に毛利輝元を担ぎ出すことにした。
また、徳川家康に賛同する諸将を引き止めるため、近江の要衝・愛知川に関を設営しただけでなく、京・大坂にいる諸大名の妻子に帰国禁止令を出すことで人質とすると、半ば強引に味方につけようとしていた。
しかし強引なやり方は、後に多くの部将から反感を買うことになる。
西軍には、備前・宇喜多秀家、薩摩・島津義弘、筑前・小早川秀秋、周防・吉川広家、南肥後・小西行長などが加わり、木曽川以南を西軍の勢力範囲とした。
総兵力において東軍を上回っていた西軍だったが、統率する者が曖昧なこともあり、烏合の衆と言わざるを得なかった。
一方、大津城には石田三成の使者・朽木元綱が来訪し、西軍への賛同を求めた。
暫くの間、返答を渋っていると頻繁に使者が訪れるようになった。
西軍への賛同を受け入れた京極高次は、人質に長子・京極忠高を出した。
やがて、徳川方の前田利長が越前に侵攻したことから。京極高次にも出陣の命が下ったため、
二千の兵を率いると監視役の朽木元綱と共に大津城を出陣した。
京極高次が大津城を離れたことを知った石田三成。
大津城を徳川方に奪われないために、城に使者を送った。
城将に向けて、大坂から兵を入れるため開城するようにと求められた。
しかし、城将は主君の命で城を守っているため、主君の命がない限り開城には応じられないと拒否の姿勢を示した。
越前に向けて進軍していた京極高次だったが、進軍の隙をみて大津城に向けて突如引き返した。
大津城に戻った京極高次は、徳川家康に密書を送ると、西軍を迎え撃つため籠城戦に備えた。
京極高次の離反を知った大坂城の淀殿は、大津城に向けて使者を送り思いとどまらせようとしたが、京極高次だけでなく初、竜子にも聞き入ってもらえなかった。
西軍は、大津城攻撃のため毛利元康(輝元の叔父)を総大将、他に立花宗茂、毛利秀包など1万5千の軍勢を向かわせた。
大津城の戦い
1600年(慶長5年)9月7日
大津城を包囲した西軍は、昼夜問わず三日三晩攻め立てたが、城内の3千の兵による懸命な防戦により、西軍の死傷者は6千人に達していた。
大津城は、大軍に攻め続けられるも一郭さえ落ちることはなかった。
多くの犠牲者を出した西軍は、兵を一旦休ませるため9月11日に陣を一旦引くこととした。
これを好機と捉えた京極高次は、重臣の赤尾伊豆守らに命じて夜襲攻撃を仕掛けた。
丑の刻に5百の兵を率いて城を出撃、連日の戦で疲れ果て寝入っていた毛利の陣営を襲うと、陣内は混乱となり、3千の毛利兵が着の身着のままで逃げ散って行った。
毛利元康は、夜襲による損害を受けたことで諸将を集めると、城攻めの作戦変更について協議した。
1600年(慶長5年)9月13日
西軍は、大津城近くの高台に土塁を築き、数十の大砲を設置すると城に向けて砲撃を開始した。
また、城の周囲に矢弾を防ぐ竹束を設置し、千鳥掛のような塹壕を掘り、千挺の鉄砲による一斉射撃も行った。
この攻撃により、大津城の城壁や櫓が次々と破壊されていった。
その後、立花宗茂の先鋒・立花成家らが三の丸にある京町口に攻め寄せると石垣を這い上がり侵入に成功した。これに触発された毛利秀包らも石垣を伝って三の丸に侵入し、城兵が次々と討ち取られていった。
京極方の将・赤尾伊豆守らも必死に奮闘したが、次々と打ち破られると三の丸は西軍に占領されてしまった。
三の丸を攻略した西軍は、高極高次に降伏勧告の使者を送ったが、これを聞き入れず徹底抗戦の構えを示した。
しかし、残る二の丸も崩落寸前となっており、本丸の兵糧・弾薬も底を尽きかけていた。
西軍の大砲が本丸天守に命中すると、城内は混乱状態となった。
この時、竜子の侍女2人が即死、竜子も暫くの間意識を失っていた。
再び西軍の使者が京極高次に降伏を促すと、これ以上の犠牲は無意として応じた。
その後、立花宗茂に城を委ねて退去した。
1600年(慶長5年)9月15日 早朝
円城寺にて剃髪帰依した京極高次は、高野山へと向かった。
だがこの時、関が原では東軍と西軍による天下分け目の戦いが繰り広げられていた。
関ケ原に向かっていた毛利元康らの軍勢は、西軍の敗北を知ると大坂城へと撤退した。
関ケ原の戦い後、大津城に入った徳川家康だったが、城は跡形もないくらいに打ち崩され、城下町もすべて焼き払われ無残な状態となっていた。
およそ3千の兵で1万5千の兵を大津城に留まらせ、関が原での西軍勢力を削いだという大きな役割を果たしてくれた京極高次を高く評価し、功に報いるために若狭小浜8万5千石が与えられた。
翌年には、7千石が加増されて9万2千石の大名として返り咲いた。
京極高次にとって大津城の戦いは、蛍大名の汚名返上となる人生最大の大戦だったと言える。
(寄稿)まさざね君
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