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戦国武将研究会所属、国内旅行地理検定2級の高田哲哉と申します。
この度は、このサイトをご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
深く御礼を申し上げます。

このサイトの運営・維持は、赤字覚悟の採算度外視です。
普段は仕事としてサイト運営を致しておりまして、他にも戦国時代系のサイトもございます。
最初はそちらの追加記事として考えていたのですが、あえて「関ヶ原」に特化する形で、このように独立サイトとさせて頂きました。
その為、単独では赤字が積み重なる形ですので、まぁ、ボランティア精神でございます。

ともあれ、戦国時代や戦国武将にご興味をお持ちになり、関ヶ原を訪れたくなった皆様に、少しでもお役に立ちますと嬉しく存じます。
ただし、関ヶ原も現地で生活されている住民の皆様がおられます。
史跡などは住宅街にある場合もありますので、見学・訪問される場合、マナーを守り、ご迷惑をお掛けしないよう、ご配慮を賜りますと幸いです。

また、当サイトでは、追加記事・編集などにご協力頂ける方も募集致しておりますので、もしよろしければ、Facebookからでもお問い合わせ賜りますと幸いです。

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※上記のFacebookグループでは、新規メンバー様も常時受付させて頂いております。




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ご利用上のお願い

当サイトに掲載させて頂いております各種情報は、参考文献やその他情報などを元に、原則として現地にて直接確認した上での掲載を心掛けております。
しかし、そもそも参考にした史料などに間違いがあったり、表現方法によっては誤解を招くことがあるかも知れません。
よって、掲載内容を保証するものではありませんので、当サイトのご利用なさった事により、万が一、皆様に不利益が生じても、当方では一切責任を負いかねますので、ご理解を頂いた上でご高覧賜りますと幸いです。
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※コメント送信致しますと、同じ画面に戻ります。後日、コメント欄に手動にて反映する形となり、当方からの返信は同じコメント欄にUPさせて頂きます。(メール返信はできません。)

関ヶ原を訪れて

関ヶ原の各史跡を訪問させて頂く前には、西軍は裏切り者が続出して「運が悪く負けた」なんて思っていたのですが、決して運で負けた訳ではないことに気がつきました。
良くわかったことは「西軍は負けるべくして負けた」と言う事です。

西軍の総大将は豊臣秀頼でもなく、東軍のようにその総大将の為に戦うんだと言う「意気込みの差」
西軍諸将を寝返りさせると言う、徳川勢側の「戦略の差」
東軍は徳川家康の元、一致団結しましたが、西軍は石田三成が動くようにと指示を出しても動かないなど「指揮の差」、まぁ、これは指揮官の人望も大いにあり、結局は「総大将の差」と言えます。

そのため、大垣城にそのまま籠城して戦ったとしても、この関ヶ原にて西軍が有利な布陣を取ったところでも、西軍の負けは決まっていたと思います。
そういう意味では、総大将の差は一番大きいです。

歴史にifは禁物ですが、仮に豊臣秀頼が総大将になる事を、淀殿ら大阪城の豊臣首脳が「それだけの覚悟」を決めていれば、恐らくは小早川秀秋も裏切るようなことは無く、加藤清正や福島正則も徳川では無く、豊臣側になっていたかも?、知れません。
石田三成も、豊臣秀頼が総大将になると言う「確約」を得られてから、挙兵するべきであったと言わざるを得ません。
逆の言い方をすれば、徳川家康を警戒していたにも関わらず、淀殿ら豊臣政権は、石田三成らを100%信用できなかったと言えるでしょう。
信用していれば、どっちが勝っても、豊臣家に害が及ばないような「中立姿勢」は取らないはずですので、本当に虫が良い話です。

戦後、大阪城に入った徳川家康に対して、豊臣秀頼は「忠義者である」と苦労をねぎらっています。
その忠義者の徳川家康は、豊臣家220万石を、56万石まで減らし、1615年には大阪の陣にて滅亡へと追いやっているのです。
そう考えますと、戦略的にも石田三成ら本当に豊臣家の事を考えていた首脳陣が、本来の総大将を擁立できなかったと言う「大きな判断ミス」が、まさに関ヶ原の戦いの勝敗を決めたと言っても、過言ではないと考える次第です。

結果的に、徳川家康は、その大阪城の豊臣家であるはずの西軍が一枚岩になれずにいた隙をついて、西軍の諸将を調略して切り崩し、ある程度「勝算」があった為、遅れている徳川秀忠らを待たずに「決戦」を挑んだものと推測致します。

関ヶ原関連史跡の残された現地確認課題

下記の部分においてはまだ不備があると考えておりますので、再訪した際に補完させて頂く予定です。

細川忠興の陣跡の再訪(完了)
象鼻山の西軍陣跡訪問(推定地)
菩提山城の訪問
菁莪記念館
禅幢寺にある小西行長の墓
垂井城の再訪
松尾山城の城郭部への再訪

<謝辞>

本サイト公開にあたり、資料提供とご指導を賜りました寺田女史に深く感謝を申し上げます。

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