大津城の戦い~京極高次と京極竜子~武田元明や京極高知との関係も

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京極高次(きょうごく-たかつぐ)は北近江の守護・京極高吉の嫡男として1563年に生まれました。幼名は小法師です。
母は浅井久政の娘・京極マリアです。
生まれた城は、なんと「小谷城」の京極丸で、当時の浅井家当主は浅井長政です。

姉か妹には京極竜子(きょうごく-たつこ)がいますが、生年は不明です。名は於龍とも言います。
京極竜子は最初の嫁ぎ先である後瀬山城主(旧若狭小浜城主)の武田元明との間に1男2女を設けています。

京極家は京都の京極に屋敷があったことから「京極」と称するようになり、室町時代には出雲・隠岐・飛騨の守護を代々務める四職家となる名門中の名門で、近江守護京極氏は小谷城を居住としていました。
しかし、家督争いと譜代家臣である浅井亮政の台頭でその立場を失い、京極家は浅井亮政の保護を受けている形式だけの守護となっていました。




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1567年9月頃、浅井長政が、織田信長の妹・お市の方を正室に迎えると、1568年、父・京極高吉は足利義昭を見限り、上洛する織田信長に臣従して上平寺に隠居します。
そのため、まだ6歳であった京極高吉が京極家の家督を継いだのですが、織田信長の人質として岐阜城に送られました。
織田信忠とも歳が近いですので、共に学んでいたのかも知れません。

なお、京極竜子はこの頃までには武田元明に嫁いでいた模様です。
武田元明(たけだ-もとあき)は、若狭武田氏・最後の第9代当主で武田元次とも言い、1562年生まれとも、1552年生まれともされています。
1562年生まれですと、京極高次と1歳違いとなりますが、武田元明の父・武田義統が死去して家督を継いだのが1567年4月です。
このため、1562年生まれですと若すぎますので、1552年生まれですと、京極竜子は京極高次の「姉」と言う可能性があり、逆に武田元明が1562年生まれの場合には、京極竜子は京極高次の「妹」と言うことになる可能性が高いと推測致します。




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この頃の若狭武田家も衰退しており、有力被官の高浜城主・逸見昌経(逸見昌清)、国吉城主・粟屋勝久、大倉見城(井崎城)主・熊谷直澄らが離反して独立。
越前・朝倉義景によって1568年に後瀬山城が陥落すると、武田元明は朝倉氏に臣従したため、京極竜子も一緒に一乗谷城へ強制移住したと考えられます。

1572年には、弟・京極高知(きょうごく-たかとも)が誕生しました。

1573年8月、朝倉氏が滅亡すると武田元明は開放されますが、旧領の家臣団「若狭衆」である逸見昌経、内藤越前守、香川右衛門大夫、熊谷直澄、山県下野守、白井光胤、粟屋勝久、松宮玄蕃、寺井源左衛門、武藤景久らは、後瀬山城に入った丹羽長秀の与力に加えられました。
このように若狭は丹羽長秀に与えられたため、武田元明は再興が叶わず、しばらく苦労したものと推測されます。

1573年9月、小谷城攻めにて浅井長政が自刃したことで浅井家が滅亡しますが、その直前の7月に11歳の京極高次は宇治・槇島城にて籠城する足利義昭を攻撃する織田信長に従い、11歳の京極高次も出陣した模様です。
この功績により、織田家より近江・奥島(近江八幡市)に5000石を与えられ、離散していた家臣を呼び寄せました。
父の兄の子である京極高成は、御供衆として足利義昭の近習であったことから、室町幕府が鞆の浦に移った際にも、足利義昭と同行し、以後も最後まで足利義昭に仕えていますので、京極一族でも敵味方同士になっていたことが伺えます。

一方、織田信長から無視されていた武田元明は、1581年3月に石山城3000石を受けて、丹羽長秀の与力(若狭衆)として復活しました。
これは、高浜城主・逸見昌経が死去したことを受けて、逸見家8000石が没収され、その一部が武田元明に与えたものです。




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19歳になった京極高次は、1581年、織田信雄の伊賀攻め(第二次天正伊賀の乱)にも出陣しています。

なお、1581年1月、父・京極高吉と母・京極マリアは、共に安土城の城下町にてオルガンティノ神父より洗礼を受けていますが、その数日後となる1月25日父・京極高吉は死去しました。
突然の死であったことから、仏罰で没したと噂されたと言います。
また、1580年前後と推定されますが、京極高次の妹・マグダレナは朽木宣綱の正室となり、朽木マグダレナとなった模様です。

1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長が討たれると、武田元明は勢力回復する好機と、若狭衆を説得して蜂起し明智光秀に通じます。
京極竜子が嫁いでいたことからも、これに京極高次も応じて、武田元明と共に近江へ侵攻し、この頃、丹羽長秀の本城となっていた佐和山城を陥落させ、羽柴秀吉の居城・長浜城も攻めました。

しかし、6月13日、山崎の戦いにて羽柴秀吉が明智光秀を破ったために事態は一転し、織田勢に恭順しようとした武田元明は、丹羽長秀のいる近江国海津(貝津)に招かれました。
そして、7月19日に海津の法雲寺にいるところを武田元明は謀殺されてしまいます。享年21または31となります。
これは自刃とも言われていますが、羽柴秀吉に殺害されたとも考えられます。
武田元明の継嗣・武田義勝は津川姓を称して、津川義勝となり、のち親族である京極高次に仕えました。

京極高次は美濃、そして若狭の旧武田領へと逃れることが成功し、一時は柴田勝家にも匿われていたとされており、賤ヶ岳の戦いで京極高次は柴田勝家に従い戦いました。




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京極竜子は、羽柴秀吉に捕らえられていたようで、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の側室となります。
豊臣秀吉お気に入りの側室であり、肖像画からも大変な美女であったと伝わります。

この京極竜子の嘆願などのお蔭で、逃亡していた京極高次も許されて、羽柴秀吉に仕え、1584年には近江・高島郡にて2500石を与えら、1586年には5000石になっています。

1585年、大阪城が完成すると、京極竜子は側室の筆頭として西の丸に入った為、西の丸殿(西丸殿)と呼ばれました。




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25歳になった京極高次は、1587年、九州攻めの戦功により1万石に加増され、大溝城主となっています。
そして、羽柴秀吉の計らいにて、浅井三姉妹で浅井長政の次女・お初(浅井初、常高院)と結婚しました。
京極高次と初は従兄妹同士で、夫婦仲も良かったようですが子はできなかったようで、京極高次の側室としては山田氏の娘(侍女の於崎)が、1593年に長男・京極忠高(きょうごく-ただたか)を生んでいます。
この時、お初は機嫌を損ねたようで、家臣の磯野信高が京極忠高を預かって浪人し、1595年まで幼い京極忠高を保護したと言います。

1590年、小田原攻めの際に、京極高次はどこを攻めたのか不明ですが、戦後、近江・八幡山城主として2万8000石と大出世します。
1591年、豊臣秀次が関白に就任すると、従五位下侍従となるなどした為、京極龍子やお初による「七光り」で出世したとされ「蛍大名」とささやかれました。

なお、京極竜子は小田原の陣や名護屋城にも豊臣秀吉の伴っており、箱根湯本に行った側室は茶々(淀殿)だけでないことも伺えます。

1591年、伏見城が完成し豊臣秀吉が居城を移すと、京極竜子は松の丸に住んだことから松の丸殿(松丸殿)と呼ばれており、京都・請願寺の再興にも尽力しています。
誓願寺の寺紋は、京極氏の家紋「三つ盛り亀甲」に由来します。

醍醐の花見では北政所、淀殿の次となる3番目の輿が京極竜子でしたが、この時、朽木マグダレナの夫・朽木元綱が京極龍子の輿に付き添う役を務めました。




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京極高次の弟・京極高知は早くから豊臣秀吉に仕えており、近江蒲生郡5000石でしたが、信濃・飯田城主である毛利秀頼の娘を継室に迎えていました。
この毛利秀頼は、安芸の毛利家ではなく、桶狭間の戦いで戦功を上げた織田家の家臣です。
その毛利秀頼が1593年に死去すると豊臣秀吉は、毛利秀頼の子・毛利秀秋は1万石だけ引き継がせ、残りの飯田城6万石は、娘婿の京極高知が相続すると言う裁定を下しています。
ちなみに、この毛利秀秋は関ヶ原の戦いでは石田三成に協力して伏見城の戦いにも参加しましたが改易され、のちに豊臣秀頼に仕えると大坂夏の陣で討死しました。

京極高次の弟・京極高知は従四位下侍従となり羽柴姓を許され、飯田城下ではキリスト教の布教を許可し、のち自身もキリシタンとなっています。
そして、1594年には10万石に加増されました。

蛍大名の兄・京極高次(33歳)のほうは、1595年に近江・大津城6万石ですので、この時点では弟の方が優遇されていると言う事になりますが、従四位左近衛少将となり、さらには羽柴姓だけでなく豊臣姓を下賜され、1596年には従三位参議(宰相)となっています。

1598年、豊臣秀吉がすると京極竜子は大津城に移り、京極高次と京極高知は徳川家康に接近します。




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大津城の戦い

1600年6月16日、大坂城から上杉景勝の合図征伐のたる出陣した徳川家康は、伏見城を鳥居元忠に託して6月18日発ちます。
そして、大津城に立ち寄ると、徳川家康から上杉征伐に加わるよう頼まれた京極高次は、弟・京極高知と家臣の山田良利(山田大炊良利)を徳川勢に同行させました。

7月に入ると石田三成が挙兵し、大津城の京極高次は、妹らの嫁ぎ先である氏家行広と朽木元綱から西軍に協力するよう求められます。
それと反するように、徳川家康からは、再三に渡って大津城を西軍から死守するようにとの書状が届きました。

しかし、大津城の守りに不安があった事から、京極高次は嫡子の熊麿(京極忠高)を人質として石田勢に差し出し、大津城を訪れた石田三成と面会しています。
ただし、西軍の動向は、常に徳川家康に知らせていたようです。

西軍は伏見城を落とし、次いで北陸と伊勢に侵攻しますが、9月1日、大谷吉継の北陸方面軍に加わる為、大津城は赤尾伊豆守と黒田伊予守に託し、京極高次は3000にて出陣すると9月2日には越前の東野へ到着しました。
ここで、大谷吉継が北陸から美濃へと転進すると、京極高次は海津を経て琵琶湖を船で渡って大津城に撤退。
兵糧を運び込み兵を集めて籠城すると、徳川家重臣の井伊直政に籠城し西軍を抑えると伝えました。
京極竜子とお初も大津城内にいたと考えられています。




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この様子はすぐに西軍に伝わり、大坂城の淀殿(茶々)はたいそう驚いたようで、大阪城にいたお初(淀殿の妹)と饗庭局(海津殿)を、大津城に派遣して降伏を求めましたが、京極高次は拒否します。
そして、毛利輝元の叔父・毛利元康が大津城へと攻め寄せ、立花宗茂立花直次小早川秀包、宗義智、筑紫広門らの諸大名1万5000が大津城を包囲しました。

9月11日夜、赤尾伊豆守や山田大炊は兵500にて城外へ討って夜襲を行うが、9月12日に堀は埋められ、9月13日には総攻撃を受け、大砲の砲弾が天守に命中するなどして混乱。
立花勢の先鋒・立花成家(立花吉右衛門)や内田統続が城壁に取り付き、京極高次自身も2ヶ所に槍傷を受け、三の丸と二の丸が続けて落ちました。
9月14日、高野山の木食応其が送られるて降伏を促しますが、京極高次は拒否します。
しかし、北政所の使者・孝蔵主が訪問すると、老臣・黒田伊予の説得もあり、9月14日の夜になって降伏することを決しました。

9月15日朝、京極高次は城下の園城寺で剃髪し、70人程の家臣と共に宇治から高野山へと向かいました。

その頃、関ヶ原では西軍と東軍の火蓋が切られていました。
この京極高次の大津城籠城により、少なくとも毛利元康・立花宗茂ら15000は、関ヶ原本戦に間に合わず、徳川家康の勝利に大きく貢献する形となったのです。

京極高次のその後

高野山には井伊直政からの使者が届き、高野山を下りるよう促されましたが、初め京極高次は断ります。
更に山岡景友(山岡道阿弥)と弟・京極高知の説得を受けてると下山して、大坂にて徳川家康と面会しました。
大津城での戦いを徳川家康は高く評価し、若狭一国8万5000石を与えられて、京極高次は1600年10月に後瀬山城に入り、京極若狭守高次と称します。
翌年には近江国高島郡のうち7100石が加増され、9万2100石となっています。
なお、後瀬山城の本丸は標高が高く、また麓の旧若狭守護館は近世大名として政務を執るには狭すぎたため、1601年に北川と南川と小浜湾の三角州に海城となる、新たな居城として「小浜城」の築城を開始しました。
また、小浜の街路を整備して武家屋敷や町屋を移し、新たな街区を設けるなど城下町の整備に務めています。

1609年5月3日、小浜城の完成を見ず、京極高次は死去。47歳。
高野山の奥の院には大津城の戦いで討死した22名の家臣を供養する石碑もあります。

正室・お初は出家して常高院と号し、この頃から大阪城の淀殿・豊臣秀頼の使者として、駿府城の徳川家康・阿茶局との交渉に奔走します。
お初に関しては、既に下記のページがありますので、このページではこの辺りまでとさせて頂きます。

常高院-浅井初(お初)とは【浅井三姉妹】豊臣家と徳川家の橋渡し役

家督を継いだ子の京極忠高は、1606年7月に将軍・徳川秀忠の4娘・初姫を正室に迎えていますが、この初姫は母・お初(常高院)の妹・お江が産んだ娘となります。
大阪冬の陣の際の、豊臣勢と徳川勢の和睦交渉は、徳川勢として参じた京極忠高の本陣にて、お初(常高院)と阿茶局が和議を取りまとめました。

京極高知のその後

弟・京極高知は岐阜城攻め、そして関ヶ原本戦では藤堂高虎と共に大谷吉継への激戦を演じました。

京極高知(関ヶ原ウォーランド)

戦後、丹後12万3000石となり、田辺城に入城したあと、拠点を宮津城に移し、京極丹後守高知を称しました。

藤堂高虎・京極高知陣地

宮津城は本丸に七基の二重櫓を設けるなど大規模に改修されたと言います。
1622年8月12日に、京極高知は死去。
菩提寺は舞鶴市にある本行寺です。

2人の母・京極マリアは、丹後の泉源寺村(京都府舞鶴市)に住まいを得て布教活動を行いつつ、若狭と丹後を行き来したとされます。
そして「泉源寺様」と民から慕われたと言いますが、1618年7月1日に死去しました。

京極竜子のその後

関ヶ原の戦いで大津城を開城したあと、京極竜子は寿芳院と号して出家し、聚楽第時代に住んでいた西洞院(賛州屋敷)に移りました。
そして、北政所(高台院)や淀殿と親交を重ね、たびたび大坂城へ贈り物をしたり、豊臣秀頼に会うなどしていました。

1615年、大坂夏の陣で豊臣秀頼と淀殿が自刃すると、京極竜子は淀殿の侍女・菊を保護し、六条河原で処刑された豊臣秀頼の子・国松の遺体を引き取って誓願寺に埋葬しました。
その後、1634年9月1日に死去。
墓所は当初、誓願寺でしたが、現在は豊臣秀吉を祀る豊国廟(豊国神社)に供養塔(五輪塔)が移されています。

京極高次の家臣

1600年9月1日に、戦に備えて大津城の城下の一部を焼いた家臣としては下記の通りです。

斉藤勝左衛門、若宮兵助、比良七左衛門、多賀孫左衛門、小川勝太夫

9月11日に夜襲して戦功を挙げた家臣

高宮半四郎、赤尾伊豆守、山田大炊、三田村出雲、三田村吉助、内田太郎左衛門、尼子外記、服部佐渡、鞍智伯耆、若宮平兵助、佐脇作左衛門、斉藤勝左衛門、多賀孫左衛門、今村掃部、箕浦備後、本郷左衛門、丸尾孫五郎、中井治兵衛、服部幸太郎、友国心兵衛、寺西左衛門、伊東長右衛門、井上茂兵衛、石川右衛門、西荘源左衛門、深井長右衛門、上原太郎作和、爾勘左衛門、小川五郎八、小野仁右衛門、小倉心兵衛、広瀬作太夫

9月13日に討死した家臣

小関甚右衛門、磯野八左衛門、石黒又兵衛、山田三左衛門、篠原宗兵衛、小川左近右衛門、三浦五右衛門、新保喜左衛門、中次角兵衛、河上小左衛門、伊藤角助、林五郎兵衛、横山久内、香川又右衛門、篠原右兵衛、山田平兵衛、馬淵隠斎、藤岡又右衛門

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