【小田原攻め】豊臣勢の大軍にて小田原城を包囲した名だたる籠城戦「小田原征伐」の解説

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小田原攻め(小田原征伐)とは

武田勝頼を討ち滅亡させた織田信長であったが、本能寺の変明智光秀に討たれると、織田家の支配からも外れた甲斐・信濃などの武田遺領を巡って、上杉景勝北条氏直、徳川家康が争う天正壬午の乱となる。
1582年10月末に、甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領として和睦し、徳川家康の娘・督姫(とくひめ)19歳が、北条氏直の正室となり、北条家と徳川家は親戚となった。
1584年10月27日に、徳川家康が豊臣秀吉大阪城を訪問し、豊臣に臣従すると、豊臣秀吉は同盟関係にある徳川家康に北条氏政・北条氏直親子を説得させて、戦わずに、臣従させる作戦を取った。
豊臣秀吉は、北条氏政・北条氏直親子に上洛を命じたが、北条家はなかなか応じない。
徳川家康は、北条氏政の弟で、北条氏直の叔父にあたる北条氏規を上洛させて、豊臣秀吉に納得してもらおうとした。
北条氏規も、かつては今川家の人質であり、徳川家康とは幼馴染だったのだ。1588年8月に北条氏規が上洛して、豊臣秀吉に拝謁し、北条家は豊臣家に臣従することを表明する一方、北条氏政・北条氏照ら主戦派は、1587年から軍備増強に務めていた。




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一方、北条家の領地となったはずの沼田領では、真田昌幸真田信之真田幸村らが抵抗し、なかなか北条家の支配下になっておらず、1585年8月には徳川家康と第1次上田城の戦い(上田合戦)にもなったが、徳川家は敗退し、未だ沼田領が北条家の領地になっていなかった。
そのため、1589年7月に、豊臣秀吉が調停し、沼田城を含む利根沼田の3分の2は北条家になったが、真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領と裁定した。
その真田家と北条家の和解条件として、豊臣秀吉は、北条氏直又は北条氏政どちらかの上洛を要求した。
実力者本人が上洛すると言う事は、すなわち、豊臣秀吉に臣従し、臣下となる事を意味する。北条家は板部岡江雪斎を使者として送り、一旦は北条氏政が上洛する予定であることを豊臣秀吉に伝えた。
しかし、北条家臣には真田氏との和解内容に不満を持つ者も多く、北条家はいつ上洛するかどうか、決めかねているうちに、北条家の沼田城主・猪俣邦憲が、真田昌幸の家臣・鈴木重則が守る名胡桃城に対し、鈴木重則の家臣・中山九郎兵衛を買収し、偽手紙によって鈴木重則を城外へと誘き出し、その間に中山九郎兵衛に城を乗っ取らせるという謀略によって奪取すると言う事件が1589年10月23日に起こった。
豊臣秀吉はこれに激怒。
豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた豊臣秀吉の触れ「惣無事令」(そうぶじれい)に違反したとして、豊臣秀吉は北条討伐令(小田原攻め、小田原征伐)を全国の諸大名に通知。
1589年12月13日、豊臣秀吉は宣戦布告の朱印状を以って陣触れを発し、北条攻めとなったのである。

豊臣勢の武将・大名など

主力軍 約170000

豊臣秀次、徳川家康、織田信雄蒲生氏郷黒田官兵衛黒田長政豊臣秀勝宇喜多秀家、織田信包、細川忠興小早川隆景吉川広家堀秀政池田輝政浅野長政石田三成長束正家長谷川秀一大谷吉継石川数正増田長盛金森長近筒井定次生駒親正蜂須賀家政、大友吉統、島津久保、森忠政、滝川雄利。

水軍 約10000

長宗我部元親加藤嘉明九鬼嘉隆脇坂安治

北国軍 約35000

前田利家前田利長、上杉景勝、真田昌幸・真田信繁(真田幸村)、依田康国、丹羽長重、(浅野長政の一部)

北条側の防衛

小田原城籠城 50000~60000

北条氏忠、北条氏照、太田氏房、成田氏長、皆川広照、垪和康忠、松田憲秀、笠原政晴、笠原政尭

各支城  松田康長(山中城 4000)、北条氏勝(山中城・玉縄城)、北条氏規(韮山城 3640)、大道寺政繁(松井田城 2000)、北条氏邦(鉢形城 3000)、横地監物 (八王子城 3000)、清水康英 (下田城 600)、岩槻城(北条氏房の配下 500) 、成田長親 (忍城 500)
     
八王子城、津久井城、忍城など、北条勢の各城にも少数ながら防衛部隊を配備した

山中城の障子掘り

主戦派の一人だった北条氏邦は、小田原城での籠城ではなく、討って出る事を主張したが受け入れられなかったので、小田原城には詰めず、鉢形城にて前田利家・上杉景勝らの軍勢と戦い、本多忠勝の大砲攻撃も受けたが約1カ月間耐えたのち降伏・開城。

豊臣勢の北国軍は、東山道から松井田城・厩橋城箕輪城を攻略し、上杉景勝、前田利家、真田昌幸ら15000は八王子城を攻めて、八王子城陥落に成功している。
山中城は、羽柴秀次を総大将に、中村一氏田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末、徳川家康ら約70000で攻撃。
韮山城は、織田信雄、織田信包、蒲生氏郷、稲葉貞通、筒井定次、生駒親正、蜂須賀家政、福島正則、戸田勝隆、細川忠興、森忠政、中川秀政、山崎片家岡本良勝ら45000で攻撃。守った北条氏規は大軍相手に約4ヶ月間耐えたが、徳川家康の説得で開城。その後、北条氏直を説得する役目を担った。
徳川家康勢の家臣である本多忠勝、平岩親吉、戸田忠次、鳥居元忠、松平康貞らは11000~12000で津久井城を包囲の上、開城させている。
下田城は、長宗我部元親、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆、吉見広頼(毛利家)ら10000が攻撃。
石田三成勢は、石田三成・長束正家・大谷吉隆・宇都宮国綱・結城晴朝・佐竹義重・多賀谷重経ら20000で館林城を攻略し、増援に真田昌幸を受けて忍城を包囲し水攻めを敢行。甲斐姫や成田長親の抵抗を受けた。

同じく豊臣秀吉に抵抗すると考えられていた伊達政宗も豊臣秀吉に臣従するのを見て、豊臣秀吉は小田原城に黒田官兵衛を使者として遣わした。
降伏条件として、豊臣秀吉は相模国・武蔵国の安堵すると言う黒田官兵衛であったが、主戦派の北条氏政・北条氏照らは反発。最後まで小田原城で豊臣秀吉に抵抗しようとする。
黒田官兵衛は、粘り強く交渉を重ねるうちに、北条氏直の信頼も得て、北条家の家宝や名刀「日光一文字」などを受け取っている。
小田原城は約3カ月間籠城したが、重臣・松田憲秀の庶子・笠原政晴(更科六兵衛のモデル)が豊臣秀吉に内応しようとしたり家臣の謀反や、石垣城(一夜城)が突如現れ、家臣の離反も相次ぎ、北条氏直は7月5日に滝川雄利の陣所へ赴いて、北条氏直自身が切腹することにより将兵の助命を請い、豊臣秀吉に降伏した。 




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豊臣秀吉は、北条氏直の切腹する代わりに家臣の命を助け欲しいと言う申出に感心し、また、徳川家康の婿であったこともあり、北条氏直は助命された。
しかし、主戦派だった北条氏政・北条氏照と、宿老の大道寺政繁・松田憲秀は切腹を命じられ、7月11日に北条氏政・北条氏照が切腹。
7月12日には、北条氏直の高野山での謹慎処分が決定され、8月21日に北条氏房・北条直重・北条直定・北条氏規・北条氏忠・北条氏光ら北条一門及び、松田直秀・山角直繁・遠山直吉・山上久忠らの家臣を伴って小田原を出立し、8月12日に高野山の高室院にて謹慎生活を開始した。

小田原征伐の詳細年表
北条氏政【詳細版】~小田原城主・関東覇者への道のり
板部岡江雪斎~北条3代に仕えた外交僧であり和歌や茶道を好む風流人
蒲生氏郷~2人の天下人から厚く信頼され戦国の世を駆けぬけた希有の智将
加藤嘉明~海戦も陸戦も得意だった戦国大名
碓氷城~迎え撃つ北条勢最前線「愛宕山城城址探索記」
堀秀政~かなり有能な武将なれど注目されていないのはもったいない?
小田原城とは~戦国時代の北条家遺構と総構え