関ケ原関連

金森長近~赤母衣衆から北陸方面を任される

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金森長近(かなもり-ながちか)は、美濃源氏土岐氏の支流とされる大畑定近(金森定近)の次男として、1524年に生まれました。
美濃国土岐郡多治見郷大畑村(岐阜県多治見市大畑町)の出身だとされ、幼名は五郎八可近(ごろうぱち-ありちか)とあります。

土岐氏の後継者争いで土岐頼武と土岐頼芸が争うと、父・大畑定近(金森定近)は土岐頼武に味方します。
1535年、土岐頼武が弟・土岐頼芸に敗れて失脚したため、父・大畑定近(金森定近)はほどなくして美濃を離れて、近江に入り、野洲郡金森にて1541年まで過ごしました。
この時「金森采女」を称したことから、以後は、大畑ではなく金森で呼ばれるようになります。

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1542年、18歳になった金森長近は近江から終わりに入り、織田信秀に仕官しましたが、そのまま織田信長の元にて美濃攻めでの活躍が認められ、赤母衣衆になりました。
初名は金森可近でしたが、今川義元との桶狭間の戦いで功績があり、信長から一字をもらって長近となっています。
正室は、お福の方で、継室は久昌院ですが、ともに出自は不明です。

1559年、織田信長が上洛した際、随行した家臣80名に金森長近(36歳)も含まれています。
この時、斎藤義龍からの刺客が信長の命を狙いますが、刺客と顔見知りだったため、挨拶と称して宿を訪れ、刺客に対して既に露見しているぞと伝えたとされています。

1575年、金森長近(52歳)は武田勝頼との長篠の戦いで鳶ヶ巣山砦の攻略でも武功をあげています。
越前一向一揆では柴田勝家らと戦功をあげ、1575年、金森長近は3万石にて越前・大野郡の3分の2を与えられました。
恐らくは、府中三人衆として入った越前・府中城前田利家小丸城佐々成政龍門寺城不破光治も約3万石ですので、同じように金森長近にも与えたと言う事なのでしょう。
最初は戌山城(いぬやまじょう)に入りましたが、すぐに越前・大野城の築城を開始しています。

そして、金森長近は北ノ庄城に配置された柴田勝家の与力となった次第です。

1582年、織田信長が本能寺の変明智光秀に討たれた際、金森長近の実子で長男・金森長則も本能寺にいたようで討死し、美濃の田口城主・長屋景重の子である金森可重を養子に迎えました。
金森長則は織田信忠に殉じたともされ、享年19。

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政の指揮下にて羽柴秀吉と対しますが、前田利家・不破直治らともに兵を撤収し、柴田勝家が敗走すると剃髪して羽柴秀吉に降伏しました。
兵部卿法印素玄と号し、臨済宗大徳寺に旧主・織田信長を弔うため金龍院という塔頭を建立もしています。

その後、金森長近は許されて豊臣勢として養子の金森可重と共に、小牧・長久手の戦い、佐々成政の富山の役にも参陣。
別動隊として飛騨の姉小路頼綱討伐でも桜洞城、高堂城を攻略しと、飛騨を短期間で平定します。
そのため、天正13年(1585年)に飛騨一国、3万8700石を与えられて、金森長近は高山の鍋山城に入りました。
養子の金森可重は、飛騨・増島城にて1万石となっており、1590年の小田原攻めにも参じています。

金森長近は茶の湯を千利休に学び、古田織部とも親交があったことから、肥前・名護屋城にも在陣し、1594年頃になると、豊臣秀吉の御伽衆を務めたとされています。

金森長近は天正18年(1590年)から、天神山の古城跡の改修を開始しました。

1600年、関ケ原の戦いでは、養子・金森可重や遠藤慶隆とともに徳川家康に味方し、郡上八幡城攻めなどの功から、美濃国上有知に1万8000石、河内国金田に3000石の加増を受けました。
そして、徳川家康より飛騨守に推挙され初代・高山藩主となり、慶長10年(1605年)に飛騨・高山城(小倉山城)が完成しています。

高山の城下町は、うだつが上がる町並みとして、現在、重要伝統的建造物群保存地区となっています。

慶長13年(1608年)、京都伏見にて死去。享年85。

なお、金森長近が82歳のとき、1605年に誕生したという、次男・金森長光(かなもり-ながみつ)は、のちに上有知・関の2万石を相続し、河内国金田(大阪府守口市)の3000石は、母・久昌院が化粧領として相続しています。

飛騨・高山藩の2代藩主には、そのまま金森可重が就任しており、2代将軍・徳川秀忠の茶道指南役も務めています。

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その後、金森家は6代・107年間に渡って飛騨を治めましたが、元禄5年(1692年)に、出羽・上山城に転封となりました。

さらに元禄10年(1697年)には、美濃・郡上八幡城に転封となり、7代・金森頼錦のときに、郡上での宝暦郡上一揆が起こり、責任を問われて改易・取り潰しとなりました。
ただし、旗本の金森左京家は、越前白崎にて幕末まで続いています。

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