桶狭間の戦いとは 桶狭間古戦場跡 桶狭間合戦を解説

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戦国時代の日本歴史上有名な戦いである「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)をできるだけわかりやすく・尚且つ詳しくご紹介させて頂きます。
今川義元の大軍に、清洲城では籠城する準備を進めたようですが、1560年5月19日、朝3時頃、丸根砦と鷲津砦が攻撃を受けたとの報を受け、飛び起きた織田信長は「敦盛」を舞うと、明け方の午前4時頃に、小姓衆5騎だけを引き連れて、突然出陣しました。
朝8時頃、熱田神宮に到着すると、慌ててあとから追いかけてきた軍勢が集結し、熱田神宮にて戦勝祈願を行います。
朝10時頃、善照寺砦まで進軍し、岡部元信の鳴海城を攻撃する風に見せかけましたが、その頃には、丸根砦の織田勢500は討って出て佐久間盛重が討死。
鷲津砦では篭城するも、飯尾定宗、織田秀敏が討死し、飯尾尚清は敗走するなど、大軍を相手に状況的には織田勢が不利でした。

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今川義元は午前8時頃に沓掛城を出発し、大高城の方面へ進出。丸根砦、鷲津砦を簡単に陥落したとの報告を受け、気を良くしていたと考えられます。

正午ごろ中嶋砦の佐々政次、千秋四郎らは僅か300程度をつけて、今川勢の前線である巻山・幕山の井伊直盛、高根山の松井宗信と言う主力に対して攻撃を仕掛けます。
当然、佐々政次らは壮絶な討死となりましたが、これまでの攻撃で織田勢は小勢であると、今川勢を大いに油断させる一因になったと推測します。
小勢による出撃は、今川軍の兵力分散を計り、西の山中に誘い込むための決死隊であったとも考えられます。
出仕停止処分であった前田利家も、森可成の手助けを得て、こっそり桶狭間の戦いに参加し、今川勢の首を取っています。

そして、偵察に出た簗田政綱の報告により、今川義元が「おけはざま山」に本陣を構えていると言う情報を得ると、善照寺砦に佐久間信盛500を配置して守らせ、織田信長は2000にて出撃しました。
今川義元は25000とも言われる大軍であったとされますが、もちろん、その全員が1箇所に集まっていた訳ではありません。
その為、桶狭間とされる地にも、あちこちに古戦場の伝承があります。
前述の通り、織田信長の作戦で大軍を分散させた事もあったと考えられます。
そして、最新の研究では、今川義元の本陣は5000程度だったと考えられています。
また、織田信長も全軍で攻撃には出ましたが、諸城ににも兵を配置していますので、突撃の部隊は2000程度と言う事になります。

13時頃には、視界を妨げるほどの豪雨が降りました。「信長公記」では「石水混じり」と記載されているため「ヒョウ」が降った可能性もあります。
織田信長は佐々政次、千秋四郎らが今川勢の主力に決死の攻撃を行っているあいだ、そして、この視界が悪い豪雨に乗じて、森可成、河尻秀隆、柴田勝家、長谷川橋介、林秀貞、佐々成政金森長近池田恒興、佐脇藤八、毛利秀頼、岩室重休、簗田政綱ら2000の兵を率いて急ぎ進めました。

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今までの説では、迂回して今川義元を襲ったともあります。
しかし、恐らくは豪雨の視界が悪い中、今川勢に悟られないよう砦疾風の如く駆け抜けると、善照寺からほぼ最短距離で釜ヶ谷に到達し、雨が止むのを待ちました。
釜ヶ谷はおけはざま山のすぐ北側で、現在の名古屋短大の辺りですね。
そして、横槍を入れる形で今川義元の陣を側面攻撃したと推測します。

桶狭間の戦い布陣図
※各写真はクリックすると拡大します。

雨が止んだ直後の14時頃、今川義元の本陣に攻撃を行います。
今川義元は輿を捨てて、300騎の親衛隊に守られながら騎馬で退却しようとしましたが、周囲の兵は織田信長の馬廻部隊に殲滅されます。
服部一忠が今川義元を最初に襲いましたが返り討ちにされ、その時、一緒にいた毛利良勝が今川義元の首を取りました。
「改正三河後風土記けによると、今川義元はこの時、毛利良勝の左指を喰い切ったとされています。

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今川勢は、松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将も討死し、残った諸隊は駿河へと退却しました。
井伊直盛と言う武将は井伊谷城主で、2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主・直虎」の井伊直虎の父にあたります。

大高城を守備していた松平元康(徳川家康)も戦場を離れ、大樹寺を経由して、今川家臣・山田景隆が捨てて逃げた岡崎城を奪取しました。

桶狭間の戦い

桶狭間の戦いで、今川義元が討たれた場所と言うのは、豊明市などにも伝承がいくつかあります。
おけはざま山とある場所で、最も有力視されているのが、桶狭間古戦場公園の東側の丘で、釜ヶ谷のすぐ南です。
今川本隊は、東へ逃れた者も多かったようですが、今川義元は西の大高城に逃げようとしたようですので、そうすると名古屋市側の桶狭間古戦場公園辺りで討たれた可能性もあります。

しかし、織田信長の2000は、もしかしたら、当初は、今川勢の後方をかく乱して、形勢逆転を狙って出撃しただけだったのかも知れません。
おけはざま山に行ってみると、たまたま今川義元がいて、討ち取ったと言う経緯になったとも考えられます。
もっとも、今川義元は昼頃に昼食を取り、その後13時頃から1時間、大雨が降ったため、移動するをせず、午前中に偵察した簗田政綱の報告地と、ほぼ変わらない場所に14時になってもまだいたとも推測されます。

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織田勢の大勝利は、天候の運にも助けられた、大変きわどい勝利であり、織田信長は以降、このような同じ戦法は取っていません。
すなわち、かなり危険な賭けでもあった事を示しており、かなりの強運が働いた大勝利と言う事で、織田信長は熱田神宮に感謝し、現存する信長塀を寄進しました。
 
信長塀(のぶながべい)

桶狭間古戦場跡

今回は出張の中で2010年に整備された「桶狭間古戦場公園」に寄ってみました。

桶狭間古戦場公園

駐車場はないので、隣のホームセンターでジュースを購入するついでと言う事で、駐車させて頂きました。
地図のポイント地点が、その駐車場の入口付近です。

桶狭間古戦場公園の銅像

桶狭間の駿公墓碣

上記は、今川義元の墓で、桶狭間古戦場公園内にあります。
駿公墓碣(すんこうぼけつ)と言う、田楽坪のねず塚から出土した、建立年不明の墓碑です。隣には昭和8年に建立された墓碑も並びます。

桶狭間古戦場公園

桶狭間古戦場公園

桶狭間古戦場公園

大高城、鳴海城と言い、本当であれば2日間くらいかけて、じっくり周りたい桶狭間の戦いの地ですが、関東からですとなかなか・・。
皆様からの情報提供なども是非コメント欄にお寄せ願えますと幸いに存じます。

※この記事は戦国武将列伝Ωより移設させて頂いたものになります。

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