長良川の戦い(ながらがわのたたかい)は、戦国時代の弘治2年(1556年)4月に、美濃の長良川付近で行われた合戦です。
戦ったのは、美濃守護代を隠居した斎藤道三と、嫡男・斎藤高政(斎藤義龍)となります。
この頃、31歳くらいだった斎藤高政(斎藤義龍)は、前年に父・斎藤道三から家督を継いで、美濃守護代となっていました。
しかし、父が、弟らに家督を継がせようとしたと考え、斎藤高政(斎藤義龍)は、1555年11月、2人の弟(斎藤孫四郎や斎藤喜平次)を殺害します。
これに驚いた斎藤道三は、居城の稲葉山城から脱出して、北西にある大桑城に入りました。
そのため、斎藤道三と斎藤義龍の対立は決定的となり、雪解けを待って翌年の春に合戦になったものです。
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1556年4月18日、斎藤道三は、稲葉山城から北にある「鶴山」へ陣を進めました。
鶴山に集まった国衆は、斎藤利堯、斎藤利治 明智光安、明智光久ら約2700とされています。
また、この動きに対して、斎藤道三の娘・帰蝶の嫁ぎ先である織田信長も、木曽川・飛騨川を舟で越えて大良(岐阜県羽島市)の戸島・東蔵坊まで、軍を進めて、約10km先の斎藤道三に加勢しようとしました。
一方、稲葉山城の斎藤義龍には、安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全、不破光治、日根野弘就などが味方し、約1万7000もの軍勢を誇りました。
この2人の争いに対して、美濃の武将らの多くは、斎藤高政(斎藤義龍)に味方したと言う事ですので、斎藤道三の求心力が低下していたことが伺えます。
織田信長の援軍が少ないとは言え、挟み撃ちにあってはやっかいですので、先に動いたのは斎藤義龍で、4月20日に長良川の南に進出しました。
この動きを受けて、斎藤道三は鶴山を降りて、長良川の北に布陣し「長良川の戦い」になった訳です。
戦闘は、義龍勢の先陣・竹腰道鎮が突撃したことで始まりました。
長良川の川の中、川岸などで戦いが繰り広げられたそうです。
竹腰道鎮は、円陣を組んで前進したとされ、道三の本陣を目指したと言います。
しかし、戦上手である斎藤道三は、竹腰勢を敗走させ、竹腰道鎮を討ち取りました。
そのため、斎藤義龍は、自ら旗本(精鋭部隊)を率いて、長良川を越えました。
このとき、義龍勢の中にいた長屋甚右衛門が、一騎討ちを希と、道三税の柴田角内が応じたと言われています。
この時も、道三勢の柴田角内が、長屋甚右衛門を討ち取ったため、もう負けは許されない斎藤義龍は全軍を突撃させたと言う事になるでしょう。
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そのため、兵力で劣る道三勢はやがて崩れ、長井道勝(長井忠左衛門道勝)が、斎藤道三を生け捕りにしようと、揉みあいになりました。
ここに、義龍勢の小牧源太が、道三の脛(すね)を斬って、更に首をとったとされています。
織田信長の援軍は、この長良川合戦に間に合わず、首実検を終えた斎藤義龍は、ただちに軍勢を織田勢に向けました。
織田勢としては、山口取手介と土方彦三郎らが討死に、重臣の森可成も、千石又一によって膝を斬られて退いています。
なお、この合戦中に、斎藤道三の死が織田信長に伝わったとされ、自ら殿(しんがり)を務めると鉄砲を駆使して、織田勢を引き上げさせたと言います。
なお、長良川で対陣しているときに、斎藤道三は、織田信長に「美濃国譲り状」を送ったともされています。
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実際に長良川で戦った場所は、その後、長良川の洪水などで、川の流れや地形が変わったようで、伝承地が残されていない状態です。
明智光秀の明智一族は、長良川の戦いにて、斎藤道三に味方したとされます。(実際にはよくわかっていません)
明智家からは、小見の方など、明智の娘が、斎藤道三の側室になっていたなど、密接なかかわりもありました。
諸説ありますが、この長良川の戦いのあと、明智家の城(明智城など)は斎藤義龍が送った軍勢によって落城し、明智光秀は越前に逃れることになったと推定されています。
なお、名実ともに美濃守護代となった斎藤義龍も、この約5年後に、突然亡くなっていますが、斎藤義龍の死因はよくわかっていません。
長良川の戦いから11年後、織田信長は稲葉山城を攻略し「岐阜城」とするのでした。
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