異説・沓掛城「桶狭間の戦い前夜」今川義元はどこに泊まったのか?

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目次 contents

愛知県豊明市にある沓掛城(くつかけ-じょう)と言えば、桶狭間合戦前夜に今川義元(いまがわ-よしもと)が宿泊したと言われる城として有名で、現在では城址公園として整備されています。

こちらのサイトでも沓掛城はたかだ様によって既に紹介されていますので通常でしたら記事にしないのですが、近年リニューアルされた豊明市歴史民俗資料室に訪問してお話した所、今川義元が宿泊した場所は「今の沓掛城址公園とは異なる場所ではないか?」と言う説があると言う事で、実際に確かめに行ってみました。




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立地

まずは沓掛(くつかけ)と言う地名の由来からになりますが、沓掛は旅人が草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ)をささげて神に旅の平穏を祈ったことに由来すると言われており、全国の宿駅や街道の分岐点などによく見ることができる地名です。




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沓掛城址公園のある地を見ると、東には尾張と三河の境目を流れる境川があり、沓掛城址公園の西北西1.4kmにある二村山(標高72m)を越えれば鳴海を経由して京まで鎌倉街道が続いており、北に進めば小牧長久手の戦いで有名になった岩崎城の脇を通り瀬戸(※注1)へと出る街道の分岐点に位置しています。

※注1
当時の瀬戸は、瀬戸物の産地であると共に、矢田川沿いに上流に遡ると三国峠(尾張・三河・美濃の3国の境目にある峠)を経由して各地へ出る事ができる地であり、沓掛は瀬戸物を鎌倉街道を使って東国へ運ぶために通る地の一つであり、交易の要所でもあったようです。

現代では東海道沿いに走る国道1号線が東西を結ぶ印象が強いですが、東海道は江戸時代に整備された街道のため、安土桃山時代まではその北側に位置する沓掛近辺を通る鎌倉街道が幹線道路でした。
当然のことながら、今川義元の尾張・三河侵攻も東海道ではなく鎌倉街道を利用して進軍が行われており、沓掛城址公園の東西には鎌倉街道の跡地が今でも残されています。

東)境川を渡った対岸にある祖母神社内
鎌倉街道の碑(祖母神社)
〇境内に立つ鎌倉街道の碑

鎌倉街道(祖母神社)
〇鎌倉街道
東海道と異なり道幅はかなり狭いですが、源頼朝や源義経、今川義元、織田信長なども通行していた街道です。

西)二村山緑地内
鎌倉街道の碑(二村山)
〇二村山公園内に立つ鎌倉街道の碑

二村山は標高72m、周囲に高地が無いため山頂からは濃尾平野から三河までぐるりと見渡す事ができるため、当然ながら沓掛城も眼下に収める事も可能です。

二村山から沓掛方面を望む
〇二村山展望台から沓掛城方面を撮影
写真中央の木々が生い茂った丘陵部の反対(東)側に沓掛城址公園が存在します。

さて、ここで一つの疑問が生じてきます。
先に「沓掛は鎌倉街道の交易の要所でもあったようです」と記載しましたが、沓掛城址公園からは西側の丘陵部が邪魔をして二村山を直視する事ができません。
つまり、西(鳴海方面)から敵(織田軍)が攻め寄せてきた場合、軍勢の気づきにくい位置に沓掛城址公園が存在するという事に加え、もし沓掛城址公園に宿泊した場合、敵方の物見が侵入してきて、西側丘陵部の上に登れば陣容が丸見えになる事から、当初の「今川義元が宿泊した沓掛城は別の位置にあったのではないか?」と言うお話に繋がってきます。

昭和56年(1981年)から昭和61年(1986年)にかけて城址公園の発掘調査が行われましたが、それによると1500年代には掘立柱の居館と、その南北にそれぞれ池が配され、建物の西側には井戸が掘られており(第1期)その後、堀が掘削されて土塁が積まれ、建物も礎石に変えられ(第2期)その後に建物が焼失した痕跡が残されていました(第3期)
そして、第1期と第2期の地層からは大量の陶器や、箸、しゃもじなどの木製品と天文17年(1548年)と記された木簡等が発見されたと言う報告があります。

この発掘結果から、当初は居館程度の建物(第1期)であった所を今川氏の勢力下に入った頃に池が埋められて堀と土塁が構築された他、織田軍に備えて南側に丸馬出が作られ(第2期)桶狭間の戦いの後に戦火に焼け落ちてしまった(第3期)と推測できるようです。




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つまり、今川方が城に改修する前は豪族(近藤氏)の居館程度のレベルであったと言う事で、先に記載した通り街道沿いの平地に築かれており、すぐ西側の丘陵部からは丸見えの位置にある訳ですが、そもそも今川氏の支配が伸びてくる前は沓掛は尾張の地であり、境川を渡って三河方面からの侵入を防ぐ(※注2)位置に置かれているため、西(尾張方面)を気にする事なく建てられており、北西部に隣接する丘陵には物見台(狼煙台)と詰め城を兼用する程度の施設があったと思われます。

※注2
実際には守りに適している地形とは言い難いため、境川を渡河してくる敵を迎え撃つ軍勢を集めつつ、要所である二村山の守りを固めるために敵の進軍を遅らせる役割を持つ城館だったと想像できます。

ところが今川氏の支配が境川を越えた時点で立地状況は逆転する事になり、沓掛は西からの脅威に備える必要が出てくるわけです。
当然の事ながら北西部に隣接する丘陵地を城塞化すれば、西は二村山からの進軍を警戒できるうえ、東は境川を越えて対岸の刈谷の地まで一望する事ができます。

現在、この地には聖應寺と言うお寺が存在しており、その裏山には空堀にしか見えない溝があり、近隣には城塚と言う字名も残されています。
聖應禅寺の看板
これらの傍証を基にして、城塚の一角で発掘調査を行った結果、建物があったと思われる遺構などが出てきたそうです。
大がかりな調査や発掘物の検証に至るまでには、まだ日時がかかる模様ですが、丘陵部一帯に城があった事が判った上で研究が進めば、丘陵部の城郭に今川義元が宿泊し、その軍が展開したと言う説が定説になる時が来るかもしれません。

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関連施設等

・豊明市歴史民俗資料室
豊明市二村台1丁目27番地
開館は金曜日・土曜日となります。
日曜日は休館となっていますのでご注意ください。

・聖應寺
豊明市沓掛町森元17
山号は平野山
永正元年(1504年)に「本郷山聖襌寺」と名づけられた後、永禄2年(1559年)に築田正綱により「久護山慶昌寺」と名を変え、永禄11年(1568年)には、別喜右近とその縁者である平野土佐甚右衛門長門により曹洞宗に改宗し、甚右衛門の母の法号を取って「平野山聖應寺」という現在の寺号になっています。
山門前の碑に會下山麓久護峯とありますが、會下とは禅宗などで師について修行する事とあり、ここから宗教の修行場を人の集まる場所(説法をする僧侶)を意味した地名となり、絵下、恵下などの地名が全国に見えます。
聖應禅寺の看板

・慈光寺
豊明市沓掛町東本郷68
山号は普遍山
以前は沓掛城の曲輪(伝:侍屋敷)があった地に、桶狭間の戦いで戦死した者を弔うために庚申堂を建立したのが始まりと言われています。
山門前の寺名が記されている碑には『沓掛城址 普遍山 慈光寺』と記されています。
慈光寺
正面の小高い森林部分に城があったと考えられている

・正福寺
豊明市沓掛町東本郷119
山号は白子山
明応9年(1500年)沓掛城主の近藤伊景が縁者を招いて城内に寺院を建立したのが起源。
正福寺

・諏訪神社
豊明市沓掛町森元6
応永32年(1425年)沓掛城主の藤原義行が城の守護神として諏訪大社より分霊を仰ぎ勧請した事が始まりです。
沓掛諏訪神社

(寄稿)だい

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