名門・大内氏の滅亡と毛利元就の快進撃~防長経略の解説

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大内氏の弱体化

「西国随一」と謳われた大内義隆は、第一次月山富田城の戦いで大敗、撤退時に後継者・大内春持が溺死したことで政務の意欲を失っていった。
また、大内義隆の命によって武断派ではなく文治派が政務の中心を担ったことで、両派の争いが拡大して大内氏の弱体化へと繋がっていった。

両派の溝が深くなり、大内義隆への不信が限界に達すると陶晴賢を中心とした武断派が蜂起して、大寧寺にて大内義隆を自害に追い込んだ。
新当主に大友義鎮(宗麟)の弟・大内義長を第17代当主として迎えるも大内義長は傀儡だったため、陶晴賢が大内氏を掌握していった。




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1554年(天文24年)10月
厳島の戦いで陶晴賢を中心とした大内軍が毛利元就に大敗。
今度は、陶晴賢が毛利元就によって自害へと追い込まれることとなった。
陶晴賢が亡くなると大内義長が大内氏を纏めることになるが、外者扱いされただけでなく大内氏の家臣を率いていくだけの器量もなかったため、家中での争いも激しさを増してたことで弱体化が一気に進んでいく事となる。

一方、これを好機とみた毛利元就は、厳島の戦いの戦後処理を急ぎ済ませると、厳島から安芸・周防の境界にある小方に陣を移して、周防・長門の侵攻作戦「防長経略」の準備に入った。

防長経略

1555年(弘治元年)
毛利方の村上水軍が、大島郡の宇賀島を攻めて大内方の宇賀島水軍を討伐した。
この戦いでは、一時的に無人島になるまでの激しい掃討が行われたと言われ、防長経略は地上だけでなく海域からの侵攻も行われていた。

1556年(弘治2年)
毛利元就は、周防・玖珂郡に侵攻すると、大内家を内部崩壊させるために書状(帰属勧告)を使った調略で揺さぶりをかけた。
この調略で、蓮華山城主・椙森隆康が毛利側に降ると、鞍掛山城主・杉隆泰もそれに続いたが、両氏は元々犬猿の仲であったため、椙森隆康が「杉隆泰が大内義長に通じている」と毛利元就に密告した。
毛利元就は、鞍掛城を即座に攻撃して杉隆泰ら1千3百余りの兵を討ち取り落城させた。
以後、鞍掛山城は椙森氏が治めることになった。

続いて、毛利元就は大内側についていた山代の一揆勢の鎮圧に向かった。
一揆の鎮圧は、今後の事も考えて武力ではなく調略で一揆勢を分断させることにした。
調略によって一揆勢の多くの者が毛利側となったが、一部の抵抗勢力は成君寺城に籠り毛利軍と交戦するも難なく崩落した。
玖珂郡を平定した毛利元就は、戦力再編すると周防国西部の須々万沼城に向けて進軍した。

1556年(弘治2年)4月
小早川隆景が率いる5千の兵で須々万沼城を攻めるが、城主・山崎興盛らの激しい抵抗にあい撤退を余儀なくされた。

1556年(弘治2年)9月
今度は、毛利隆元が5千の兵を率いて須々万沼城を攻めたが、再び城主・山崎興盛らの激しい抵抗によって落すことが出来なかった。
須々万沼城は、周囲が沼地ということもあり非常に攻めづらい構造になっていただけでなく、毛利軍の攻撃に備えるため、城の近くを流れる小辻川を堰き止め水嵩を上げて防備を強化していた。

1557年(弘治3年)2月
毛利元就は、自ら1万の大軍を率いると須々万沼城の背後にある道徳山に毛利元就の本陣、東側の権見山に毛利隆元、南側の日隈山に小早川隆景が布陣した。

総攻撃は、これまでの敗戦を考慮して大量の編竹と筵を用いて沼地を埋め立てて攻めやすい状態にした。
また、毛利軍によって初めて火縄銃を戦闘に使用したとも言われている。
毛利軍の猛攻は、1ヶ月ほど続いたが城主・山崎興盛が自害して開城となった。
この戦いで籠城していた約1千5百の兵が惨殺されたと言われている。

一方、周防侵攻と同時に九州の大友義鎮(宗麟)とも秘密裏に交渉を進めていた毛利元就。
大内義長の実兄である大友義鎮(宗麟)と条件が折り合えば、周防侵攻が手間取らないだろうとの考えだった。
交渉の条件は、大友氏が旧領地の豊前に兵を入れても毛利は干渉しない。
即ち、お互いに干渉しなければ大友氏に大内の領地(豊前)を分け与えるというものだった。
大友義鎮(宗麟)は、これを快諾した。

内部崩壊
陶氏の本拠・富田若山城では、陶晴賢の嫡男・陶長房らが籠って毛利軍に備えていた。
そこへ、毛利軍ではなく陶晴賢に討たれた豊前国守護代・杉重矩の遺児・杉重輔の軍勢が突如現れて激しい城攻めが仕掛けられた。
陶長房は、隙を見て城から逃亡したが龍文寺に追い込まれると自害を余儀なくされた。
この襲撃は、毛利元就の調略だったとも言われている。

陶長房が仇討ちされたことを聞いた大内氏の武功派・内藤隆世は、激怒して杉重輔の討伐に動いた。
当主の大内義長は、内部崩壊を避けようと仲裁に入るも聞く耳を持たず振り切られてしまった。
両軍は、山口後河原で交戦すると杉重輔は敗れて防府で討死した。




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この戦いの隙に富田若山城を攻略した毛利元就は、山陽道を通って防府へ進軍した。
途中、松崎天満宮(防府天満宮)で大内軍が2千の兵で待ち構えていたが、2万の毛利軍によって瞬く間に壊滅となった。
これを知った大内側の将たちは、毛利元就の勧告に応じて次々と降伏したため、内部崩壊に拍車が掛かることとなった。

大内義長の最期
内部崩壊が進んだ大内軍は、大内義長と内藤隆世の軍勢だけとなった。
高嶺城に籠城して毛利軍を迎え撃とうとしたが、先の戦い(杉重輔と内藤隆世の戦い)によって山口の町が焦土化し防衛するには困難だったため、長門・且山城(勝山城)に移って籠城した。

毛利元就は、本隊を山口占領に動かし、大内義長の討伐のため家臣・福原貞俊に5千の兵を預けると且山城(勝山城)に向かわせた。
また、1千余りの兵を下関に待機させ、毛利水軍と村上水軍で海上封鎖して大内義鎮(宗麟)からの援軍にも備えた。

福原貞俊の軍勢が城攻めを繰り返すが、堅城であったため予想以上に難航した。
そのため、内藤隆世の自刃と引き換えに大内義長の助命と降伏を勧告した毛利元就。
内藤隆世は、これを受け入れて自刃。
大内義長は開城すると、家臣らと長福院(功山寺)に移った。

翌日、毛利軍が長福院(功山寺)を包囲すると、大内義長に自刃を迫った。
大内義長は謀られると知るも、無念のまま自刃して果てた。
これにより、大内氏の滅亡と周防・長門を併呑したことで防長経略の完了となった。

三本の矢(毛利両川)

国人から尼子氏と対等に渡り合える大大名になった毛利元就は、家督を嫡男・毛利隆元に譲って隠居することを伝えた。
しかし、毛利隆元は、弟の吉川元春、小早川隆景が毛利家ではなく養家を第一に考えていることに不安を感じていたため、2人の弟が自分を補佐していくことを条件に家督継承を承諾した。




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毛利元就は、三子の前で毛利家の存続を第一とし、吉川・小早川は当座のもの、兄弟で協力して毛利家中を盛り立てることを説いて家督を継承した。
これがいわゆる「元就教訓状」で、「毛利両川」体制の成立である。
毛利隆元の早世後も遺児・毛利輝元を当主として毛利両川は維持されていく事となり、山陰と山陽の覇者となる基礎を築いていった。

(寄稿)まさざね君

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