第二次月山富田城の戦いの解説~毛利元就の中国地方統一と尼子氏の滅亡

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石見銀山の争奪

戦国時代の1557年(弘治2年)
厳島の戦い、防長経略で大内氏(陶氏)を討伐したことで、周防、長門を併呑した毛利元就
安芸の国人領主から安芸、備後、周防、長門を治める中国地方の有力大名となる。
衰えることのない勢力拡大は、尼子氏の討伐と中国地方統一へと突き進んでいった。

周防、長門を併呑する1年前の1556年(弘治2年)
毛利元就は、尼子氏討伐の足掛かりとして次男・吉川元春を石見へ侵攻させ、石見銀山を巡って対立した。
石見銀山は大内氏が治めていたが、厳島の戦いで大敗した隙に尼子氏が奪回していた。




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石見銀山とは

1527年(大永7年)に発見され、戦国時代(後期)~江戸時代(前期)に最盛期を迎えた日本最大の銀山である。
最盛期の産出量は、世界の銀の1/3だったともいわれている。
戦国時代に入ると採掘が一時中断されていたが、石見銀山の存在を再発見した大内氏によって再開されることになった。

大内氏は、実行支配するため現地に代官を派遣していたが、自立性の強い領主文化が根強く残っていたため、騒乱が頻繁に起きていた。
大内義隆が九州経営に本腰を入れている間も、地方領主の小笠原長隆に銀山を奪われてしまった。
3年後に銀山を奪回することになるが、不安定な状態には変わりがなかった。
そこで、銀山を守護するために銀山守護の拠点として山吹城を築城した。
また、周辺にも矢筈城、石見城なども築城して実行支配を強固なものとした。

しかし、大内氏(陶氏)が毛利氏に敗れて滅亡の危機に陥ると、尼子氏が石見銀山に侵攻して新たな支配権を握ることとなった。
尼子氏による支配は約5年続いたが、石見を制圧した毛利氏へと新たに支配権が移った。
その後も時代の流れとともに豊臣氏、徳川氏へと移行していく。

出雲侵攻

尼子氏は、銀山付近まで進出してきた吉川元春の率いる毛利軍と戦になるが撃破。
当初、尼子軍の堅い防御によって毛利軍は苦戦を強いられた。
しかし、1560年(永禄3年)に尼子晴久が病没、嫡男・尼子義久に家督が譲られると勢力争いにより家内が不安定となった。

これを絶好の機会ととらえた毛利元就。
3万の大軍を率いて出雲へ再び侵攻した毛利元就。
しかし、1543年(天文12年)の第一次月山富田城の戦いでは、大内氏側として総攻撃を仕掛けるも尼子軍に大敗、自身も大きな痛手を負うこととなった。
その苦い経験から、難攻不落の月山富田城攻めは、力攻めによる総攻撃ではなく、時間をかけて周囲の城を落としながら力を削いでいくと決めていた。

宍道湖の北岸に荒隈城を築いて本営とすると、日本海からの補給路の拠点となっていた白鹿城を包囲して開城降伏させた。
その後も周囲の支城を次々と攻略して、補給路を断つことで月山富田城を徐々に孤立させていった。
また、尼子氏傘下の家臣や国人に対して、攻撃や調略を繰り返すことで毛利方へ寝返らせることも行っていた。

1562年(永禄5年)6月
石見銀山を守る尼子氏の重臣・本城常光が調略によって毛利氏に寝返ったことで、石見銀山の支配権は毛利氏となった。
しかし、石見銀山を毛利の直轄としたかった毛利元就は、本城常光の存在が邪魔となり惨殺してしまった。

ここまで出雲侵攻が着々と進み、月山富田城の孤立が見えてきたが、毛利元就の元に訃報が届いた。
九州・大友氏との交渉で和議を成立させて帰還した嫡男・毛利隆元が8月4日に急死したのだ。

1563年(永禄6年)
出雲侵攻で毛利側に下った白鹿城主・松田誠保、熊野城主・熊野久忠ら国人の大半が、本城常光に対する扱いに不信を募らせて尼子側へ帰参したことで出雲侵攻を長引かせる要因ともなっていった。

毛利元就は、尼子側へ寝返った白鹿城を包囲すると、これを毛利隆元の弔い合戦と称した。
白鹿城攻めは、石見銀山の鉱夫が水の手を止めるため坑道を掘っていたが、同じく坑道を掘っていた尼子軍と鉢合わせとなり地中での争いとなった。
また、尼子倫久が白鹿城の救援に向かっていたが、毛利方の奇襲攻撃にあって敗退してしまった。
援軍が見込めず、兵糧、水が底をついたため同年10月に開城降伏した城主・松田誠保。
開城の隙を見つけて隠岐へ逃亡したが、妻(尼子晴久の娘)は城に残り自害した。

同じく、尼子氏へ帰参した熊野城(城主・熊野久忠)も包囲して総攻撃を仕掛けたが、激しい抵抗に遭って落城させることが出来なかった。

月山富田城を孤立させるには兵糧を断つことも重要だったが、但馬、因幡、伯耆方面など複数から搬入されており思うように進んでいなかった。
そこで、家臣の杉原盛重に命じて兵糧搬入路の監視することで搬入阻止に当たらせた。

1565年(永禄8年)3月
亡き毛利隆元の嫡男・毛利輝元が初陣として本営である荒隈城に着陣。
毛利元就は、月山富田城攻めの本営を星上山へと移した。

第二次月山富田城の戦い

1565年(永禄8年)4月17日
月山富田城の正面・御子守口に毛利元就、北の菅谷口からの大手道を小早川隆景、南の塩谷口からの裏手道を吉川元春によって三方から総攻撃が仕掛けられた。

一方、尼子軍は御子守口に尼子義久、菅谷口に尼子秀久、塩谷口に山中幸隆が待ち構え、地の利を活かして善戦した。
毛利軍は、三方からの攻撃を連日繰り返したが、何度も押し返され攻めきれずにいたため、
星上山から荒隈城へ一旦兵を退くこととした。




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1565年(永禄8年)9月
再度、月山富田城を大軍で包囲した毛利元就は、総攻撃ではなく、兵糧攻めで相手を弱らせていく戦術に変更した。
早速、月山富田城への兵糧を断つべく、京羅木山、勝山など周囲の山に付城を築いて、補給路の監視を強化した。
補給路の遮断による兵糧の欠乏は、降伏を希望する尼子の将兵が相次ぐという効果へと繋がることになる。

しかし、毛利元就は「尼子方の降伏も退去を許せず」と書かれた高札を至るところに立てて厳しく処断した。
城内の兵糧が尽き、降伏しても処刑されるとして兵の士気が完全に落ちたことが分かると、
今度は一転して降伏を認める行動に出た。

一方、城内の有力部将たちへの調略も続けており、毛利元就による心理的な揺さぶりに怠りはなかった。
調略によって尼子方の有力部将・亀井秀綱牛尾幸清などが次々と降伏、連鎖するように脱出兵が相次いだことで城内は深い猜疑心に包まれていた。

1566年(永禄9年)正月
城兵の士気を高めるため、私財を投げうり海から兵糧を運び入れた尼子方の重臣・宇山久兼。
兵に兵糧を与えて鼓舞していたのだが、大塚与三右衛門の讒言によって謀反の疑いをかけられ殺害されてしまう。
これで猜疑心の歯止めが利かなくなり、尼子に見切りをつけて脱出する兵が日ごとに増え続けていった。
6月になっても尼子を支援する味方が現れることなく、城内では餓死者が出始め戦える状況ではなかった。

1566年(永禄9年)11月21日
尼子義久は、これ以上の戦は困難として降伏を決意した。
当初、月山富田城に籠城していた尼子の兵は約1万だったが、開城したときには3百人程度だったと言われている。




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毛利元就は、尼子義久、倫久など降伏した尼子一族を安芸へ幽閉した。
この戦いで実質的に滅亡となった尼子氏。
毛利元就は、安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、伯耆、隠岐の中国地方8カ国支配する大大名となった。

(寄稿)まさざね君

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