厳島の戦いの解説~戦国時代の日本三大奇襲戦の一つ

「厳島の戦いの解説~戦国時代の日本三大奇襲戦の一つ」のアイキャッチ画像



スポンサーリンク



日本三大奇襲戦の一つである「厳島の戦い」は、兵力で圧倒的に不利だった毛利軍が陶晴賢の大軍に大勝利を治めた戦いで、毛利元就は西国の大大名として飛躍していく事となる。




スポンサーリンク



大内氏との決別

大寧寺の変で、主君・大内義隆を自害に追い込んだ陶晴賢は、新当主に大友義鎮(宗麟)の弟・大内義長を擁立。
大内義長は、周防国・長門国だけではなく安芸国・石見国の一部も傘下に収める大大名となったが、実情は陶晴賢の傀儡だった。
そのため陶晴賢を良く思わない者も多く、家内の政情は決して安泰とは言えなかった。
毛利元就も嫡男・毛利隆元の正妻が大内義隆の養女だったこともあり、陶晴賢を良く思っていない一人だった。




スポンサーリンク



1554年(天文23年)3月
石見三本松城の吉見正頼が陶晴賢を討つために挙兵するも陶氏の軍勢が石見三本松城を包囲した。
陶晴賢は、自分の力を鼓舞するため毛利元就に参陣を要請したが無視され続けた。

最終的に大内家(陶晴賢)との決別することを決意した毛利元就。
大内方の桜尾城を攻略後、厳島も占領して安芸国を掌握すると拠点の守備を固めた。

その後、毛利氏と大内氏(陶氏)の攻防は海と陸で繰り広げられるが、陶氏と吉見氏の三本松城での戦いが続いていたため、毛利に主力を注ぐことが出来なかった。
そのため、両氏の戦闘は小競り合いに近いものだった。

同年8月下旬、三本松城主・吉見正頼が嫡男・吉見広頼を人質に出すことで和睦が成立。
陶晴賢は、毛利討伐に専念することになった。

一方、兵力に劣る毛利元就は、正面から陶晴賢と対峙するのではなく、謀略で戦力を徐々に削っていく事とした。
早速、陶方の重臣・江良房栄に毛利方へ寝返るように働きかけるが条件が折り合わず断られてしまう。
そのため「江良房栄が謀反を企んでいるらしい」という噂を流すことで陶晴賢を疑心暗鬼に陥れた。
更に江良房栄の筆跡を偽造した書状を作成して、謀反を企んでいることが疑いないものとした。
書状を確認した陶晴賢は、家臣・弘中隆包に命じて江良房栄を暗殺。
これにより、陶軍の兵力を削ることに成功するだけでなく、結束に楔を打ち込むことも出来た。

1555年(天文24年)正月
毛利軍からの攻撃を受けて府中出張城に籠城していた白井賢胤は反撃の機を伺っていた。
海上の警戒が緩いことがわかると、水軍衆を率いて毛利水軍の拠点としていた草津城や警護所などに奇襲攻撃を仕掛けた。

同年3月15日
総勢150艘からなる白井勢の水軍は厳島にも襲撃を加えていった。
その後、毛利から離反した野間隆実と共闘すると仁保島などにも盛んに攻撃を仕掛けていった。

同年4月9日
毛利元就が率いる3千5百の毛利軍は、離反した野間隆実を討伐するため出陣。
野間隆実は、自軍1千2百と陶の援軍3百で矢野城に籠城して抵抗したが、毛利軍によって出城が次々と落されたため2日後に降伏を申し出た。
降伏を受け入れた毛利元就だったが、離反を許すことが出来ず、城外に出てきたところを襲い掛かって殲滅した。

同年5月13日
水軍100艘で厳島や有ノ浦に上陸した陶晴賢は、毛利の守備兵と激しい交戦を繰り広げた。
翌日、厳島に入った毛利元就は宮島・宮尾城を死守するため陶軍への備えを強化。
正面から陶軍とぶつかっても勝てないと考えていた毛利元就は、宮尾城を大内方(陶晴賢)から奪い取って宮島を占拠することで、陶の大軍を平地の少ない宮島へおびき寄せようとしていた。
また、陶の大軍を宮島に誘導するため「宮島を占拠されたら勝ち目がない」「毛利元就の家臣が謀反を起こしかけている」などの諜報活動もおこなうことで作戦を万全なものとした。

厳島への上陸

陶晴賢の出陣

1555年(天文24年)9月21日
陶晴賢は、周防・長門だけでなく豊前・筑前からも兵を招集したことで総勢2万余りの大軍となった。
毛利を相手に各国から兵を招集したのは、大内家内での威厳を示すためのものとも考えられた。
岩国を出陣した陶晴賢は、玖珂郡に用意していた500艘の船団で厳島に向けて出航した。

陶軍の船団は、厳島の沖合で夜を越すと日が昇るのを待って上陸を開始。
先陣は家臣の大和興武と三浦房清がつとめ、本陣は宮尾城を見渡せる塔の丘に本陣を置いた。
陶軍2万は、宮島の大聖院や弥山などに広く分布することになり、海側も杉ノ浦から須屋浦まで船団で埋め尽くされ、毛利元就の予想通りに身動きが困難な状態となっていた。

上陸を完了した陶軍は、宮尾城の攻撃を開始。
宮尾城は砦のような城であったため、守備を固めていても瞬く間に窮地に陥ることとなった。

毛利元就の厳島上陸

1555年(天文24年)9月24日
厳島への上陸と宮尾城攻撃の報せを受けた毛利元就は、直ぐに家臣を集めて行動に出た。
吉川元春、安芸国の国人衆らと佐東銀山城を出陣して、渡海するため水軍の基地・草津城に着陣した。
また、小早川隆景も毛利水軍として合流したことで、総勢4千の兵と130艘の船団で構成され、別動隊として因島村上水軍も毛利方に加勢した。

1555年(天文24年)9月26日
毛利元就は、家臣・熊谷信直に60艘の船を与えると宮尾城の救援に向かわせた。
さらに村上水軍の援軍要請をしたが、直ぐに対応が出来ないため小早川の水軍だけで対応することとした。




スポンサーリンク



1555年(天文24年)9月28日
草津城を出陣した毛利元就は、全軍を地卸前に進めた。
翌日には因島村上水軍も到着し、9月30日に厳島に向けて渡海を決行。
毛利元就、毛利隆元、吉川元春らの毛利本隊を第一軍、小早川隆景の率いる毛利水軍を第二軍、因島村上水軍を中心とする水軍を第三軍とした。

夕方になると海の天候が荒れ始め暴風雨となるが、毛利元就はそれを「吉」と捉え、日が沈むと夜の海へと出陣した。
毛利本隊は敵に気づかれないように船の篝火を最小限にして、厳島の東へ回り込むと包ヶ浦に上陸した。
本隊の上陸が完了すると、家臣の児玉就方に全ての船を安芸に戻すように命じて、この戦いを背水の陣で挑むことを兵たちに示した。
上陸した本隊は、博奕尾を山越えした先にある陶本陣を目指して進軍を開始した。

第二軍・三軍は、厳島の西を迂回すると厳島神社の大鳥居近くまで進んだ。
神社沖に辿り着いた第二軍の小早川隆景隊は、漆黒の闇に乗じて岸に近づくと、夜間警備の兵に「筑前から加勢に来たので上陸許可を願う。」と称して上陸に成功した。
第三軍の因島村上水軍は、神社の沖合で待機して開戦に備えた。

厳島の戦い

1555年(天文24年)10月1日 
夜明けと同時に毛利軍による奇襲攻撃が開始された。
夜通しで足場の悪い博奕尾を越えてきた毛利本隊は、鬨の声を合図に陶軍本隊の背後へと駆け下りた。
これに呼応するように筑前からの援軍と称して上陸に成功した小早川隆景隊と宮尾城の籠城兵も陶本陣に向けて駆け上がった。
沖合で待機していた因島村上水軍は、港に停泊していた陶水軍の船を次々と焼き払い始めた。

一方、陶軍は昨夜の暴風雨で油断していたため、戦わずして総崩れ状態となった。
毛利の挟撃を受けた陶軍の兵は、我先に島を脱出しようと味方同士で船を奪い合ったため沈没や溺死する者が続出した。
それでも陶晴賢の重臣・弘中隆包、三浦房清、大和興武らが手勢を率いて防戦に努めるが、もはや総崩れとなった陶軍を立て直すことは困難であった。

総大将の陶晴賢は、島外への脱出を図ろうとするも吉川元春隊の追撃が迫ってきた。
それを阻止するために弘中隆包の軍勢が厳島神社の南側に立ちはだかり、吉川元春隊と激しくぶつかり合うも一時的に優勢となったが、吉川隊に熊谷信直らの援軍が合流したことで、大聖院方面への退却を余儀なくされた。
この時、追撃を避けようとした弘中隆包らが周囲に火を放ったため、吉川元春は追撃を止めて懸命な消火活動にあたった。

陶晴賢らは、最初に上陸した大元浦に辿り着くが、脱出できそうな船は残っていなかった。
そこに小早川隆景の手勢が追いついてきたため、重臣・三浦房清が殿を務めて時間を稼いだ。
三浦房清らは手勢に手傷を負わせるまで追い込んだが、消火活動を終えて合流してきた吉川元春隊によって攻め込まれ討ち死にした。

陶晴賢と近習は、島の西方にある大江浦まで辿り着くが、そこにも脱出できる船は見つからなかった。
これ以上の逃亡を諦めた陶晴賢は、近習・伊香賀房明の介錯で自刃し、近習も次々と自害した。
重臣・大和興武は捕虜にされたが、1ヶ月後に毛利元就の命によって殺害された。

陶軍を壊滅させた毛利元就だったが、島内の敗戦兵を掃討するために山狩りを命じた。
一方、大聖院方面に退却していた弘中隆包の軍勢は、手勢3百を率いて龍ヶ馬場と呼ばれる岩場に立て籠もった。
その後、吉川元春隊に包囲され一斉攻撃を受けるも激しく抵抗したが、3日後には全滅した。

1555年(天文24年)10月5日
陶晴賢の首級を確認した毛利元就は、全軍を厳島から引き揚げ桜尾城で凱旋した。
陶晴賢の首は、洞雲寺で丁重に葬られた。




スポンサーリンク



この戦いによって陶軍の兵は5千人が討ち死、捕虜は3千余人に及んだ。
毛利元就は、厳島は島全体が信仰の対象で厳島神社の神域であることから、戦で亡くなった者を対岸の大野へ運び、厳島で戦いのあった全ての場所を洗い流して清めた。
また、合戦翌日から7日間をかけて神楽を奉納し、万部読経を行って死者を弔った。
この戦いによって毛利元就は、戦国の世に名を知らしめることになった。

(寄稿)まさざね君

第一次月山富田城の戦いの解説~西の二大勢力(大内氏と尼子氏)の逆転劇場
第二次月山富田城の戦いの解説~毛利元就の中国地方統一と尼子氏の滅亡
吉田郡山城の戦いの解説~陽動作戦で敵軍を錯乱した毛利元就の作戦
人取橋の戦いの解説「独眼竜・伊達政宗」伊達軍壊滅の危機
今山の戦い~総攻撃前の軍勢を壊滅させた夜間襲撃
まさざね先生・その他寄稿記事

共通カウンター