人取橋の戦いの解説「独眼竜・伊達政宗」伊達軍壊滅の危機

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伊達政宗の父・伊達輝宗二本松城主・畠山義継らによって拉致されたが、伊達政宗の苦渋の決断によって両者が討たれたことが原因となった戦い。
人取り橋の戦いについて解説する。




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発端

1585年(天正13年)10月15日
伊達政宗は、伊達輝宗の初七日法要を済ませると、弔い合戦と称して直ちに家臣団を集結させた。
弔い合戦は、加勢要請を承諾した相馬藩主・相馬義胤と合わせ1万3千の兵で二本松城に向けて出陣。




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着陣後、直ぐに城攻めを開始するが、畠山勢の激しい抵抗によって膠着状態が続いた。
ここに大雪という天候悪化も重なり、早期決着を断念して一旦帰還することとした伊達政宗。

伊達の撤退を確認した畠山勢の重臣・新城弾正は、再び包囲される前に南陸奥の諸将と常陸国・佐竹義重に向け、二本松城主・(畠山)国王丸の名で救援の密使を送った。

1585年(天正13年)11月2日
常陸国・佐竹義重・義宣の父子を中心とした反伊達連合軍が結成され、畠山氏の救援に向けて動き出した。
南陸奥から挙兵した大名は、会津・蘆名亀王丸、須賀川・二階堂阿南、岩城・岩城常隆、石川・石川昭光、白河・結城義親で、佐竹義重・義宣と合わせると総勢3万となった。

会津・蘆名氏の内乱

蘆名家は、南陸奥で伊達家に匹敵する勢力を持っており、通常であれば反伊達連合軍の指揮を執るのは蘆名家が妥当といえた。
しかし、1584年(天正12年)10月16日に第18代当主・蘆名盛隆が黒川城内で暗殺されるという事件が起こり、家内は不安定な状態となっていた。

暗殺された蘆名盛隆は、蘆名家の直系ではなく1561年(永禄4年)に須賀川の第7代当主・二階堂盛義の長男として誕生した。
1565年(永禄8年)
二階堂盛義は、蘆名盛氏と戦うが敗れて降伏した。
その時、人質として会津に送られたのが(二階堂)盛隆である。

1575年(天正3年)
第17代当主・蘆名盛興が嗣子を残す前に早世したことで、後継者問題が勃発。
そこで、第18代当主として担がれたのが、人質として会津にいた(二階堂)盛隆だった。
(二階堂)盛隆は、蘆名盛興の正室・彦姫と結婚して、蘆名盛氏の養子となったことで第18代当主・蘆名盛隆となった。

当主となった蘆名盛隆は、蘆名氏との戦いに敗れて衰退した実家・二階堂の勢力拡大に向けて力を注いだ。
これが旧来の蘆名家臣から反感を買うこととなり、反乱などが頻発することで家内情勢が一気に不安定となった。
また、隣国(越後)の上杉景勝も蘆名氏の重臣を調略して揺さぶりをかけて蘆名家の攪乱を狙っていた。

1584年(天正12年)6月
蘆名盛隆が出羽三山・東光寺を参詣中、黒川城が一部の家臣によって占拠された。
しかし、直ぐに帰郷して黒川城を鎮圧すると、首謀者の蘆名家重臣・新国貞通の長沼城も攻めて降伏させた。

1584年(天正12年)10月6日
蘆名盛隆が信頼していた家臣・大庭三左衛門によって突如背後から斬殺されるという事件が黒川城内で起こった。
大庭三左衛門は、美少年で武勇にも優れていたため蘆名盛隆から寵愛を受けていた。
しかし、二人の間に男色関係のもつれがあったのが原因とも言われているが詳細についてはわかっていない。




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その後、生後1か月の嫡男・亀王丸が家督を継ぐことになるが、亀王丸の擁立には常陸国・佐竹義重の介入が大きかったため、蘆名家中での佐竹氏の影響が徐々に拡大していった。

以上より、反伊達連合の指揮は、南陸奥の有力大名・蘆名氏ではなく、常陸国・佐竹義重が執ることとなった。

人取橋の戦い

1585年(天正13年)11月10日
各地より須賀川に集結した反伊達連合軍。
一方、伊達政宗の弔い合戦を加勢していた相馬義胤は、石川氏、結城氏などが反伊達連合に加わったことを知ると、相馬へ帰還した後に反伊達連合として参戦した。

反伊達連合軍が二本松城に向けて進軍中との報せを受けた伊達政宗。
一部を二本松城の包囲部隊として残すと、7千5百の兵を率いて本宮城に入城した。

1585年(天正13年)11月17日
反伊達連合軍を迎え撃つべく本宮城を出た伊達政宗は、安達太良川を渡った観音寺堂山に2千の伊達政宗、瀬戸川からの進軍を阻止するために瀬戸川館に伊達成実率いる1千5百、人取り橋手前に片倉小十郎、鬼庭(左月斎)良直、留守政景の本隊2千が布陣した。
また、青田原~荒井の敵部隊を攪乱させる遊撃隊として浜田景隆、白石宗実の各5百が配置についた。

一方、五百川の南方に位置する前田原に布陣していた反伊達連合軍は、鶴翼の陣で3隊に分かれて進軍を開始。
右翼となる高倉城攻めには、岩城・石川・相馬隊の1万、左翼の青田原に進軍したのは蘆名・二階堂・白河隊の1万、真ん中の荒井には佐竹義重、義宣本隊の1万が着陣して、伊達の動きを見ながら策を講じることとした。

高倉城攻めの岩城・石川・相馬隊は、高倉城を取り囲むと城攻めを開始。
これが、この合戦の合図となる。
高倉城内の桑折政長率いる5百の兵の士気は高く、兵数で圧倒する反伊達連合軍に対して善戦していた。

伊達遊撃隊は、左翼・蘆名隊の側面を突く奇襲攻撃で敵陣営を混乱させ、頃合いをみて人取り橋方面に撤退。
遊撃隊を追撃してきた蘆名隊に向けて、待ち構えていた鉄砲隊が一斉射撃で追撃を阻止すると槍隊が突撃していった。
序盤は、作戦通りの奇襲攻撃や士気の高い兵たちによって、優勢に立っていた伊達軍。

しかし、時間が経つにつれて多勢に無勢ということもあり、高倉城も崩落間近となってきた。
崩落が決定的になると、桑折政長の号令で本丸に火を放ち岩角城に向けて脱出を開始した。
これは、伊達政宗に命じられていたことで、桑折政長らは岩角城で再び戦闘に備えることとなった。
高倉城を攻略した岩城・石川・相馬隊が北上を再開すると佐竹本陣も進軍を開始した。

一方、瀬戸川館に布陣していた伊達成実。
瀬戸川を渡って北上してくる蘆名、白河・二階堂隊を視認すると突撃を開始するが、兵力の差もあり退却を余儀なくされた。

左翼の蘆名・二階堂・白河隊と佐竹義重・義宣本隊は、伊達本陣近くの人取り橋付近で総攻撃を開始した。
この攻撃によって前線で奇襲攻撃を続けていた遊撃隊が壊滅、伊達本隊の片倉・鬼庭・留守の部隊も後退せざるを得なかった。

この様子を本陣の観音堂山で見ていた伊達政宗。
必死に戦っている伊達軍を鼓舞すべく、自ら馬廻衆5百を率いて蘆名隊の側面を突いたが、応戦により鎧兜に銃創5ヶ所、矢傷1ヶ所の傷を負ってしまった。

兵数で圧倒する反伊達連合軍の攻撃は凄まじく、伊達本陣近くまで迫ってきたことで敗色が濃厚となってきたため、戦の勝利よりも大将・伊達政宗を本宮城に逃がすことを決定した。

その時、殿を務めたのが老将・鬼庭(左月斎)良直だった。
重い甲冑を着けられなかった鬼庭左月斎は、伊達政宗より拝領した金色采幣、黄綿の帽子に陣羽織という軽装で、最前線に踏み留まるが、奮戦虚しく討ち取られてしまった。
しかし、鬼庭隊は反伊達連合軍から200余の首級を取ったと言われている。
後に伊達政宗は、鬼庭左月斎の功に報いるため、未亡人に隠居領分の知行を終身安堵する朱印状を発給した。

また、本隊と少し離れた瀬戸川館の伊達成実も蘆名氏と岩城氏の挟撃に遭うが、一歩も退くことなく死闘を繰り広げ、伊達政宗が本宮城に退避できるまでの時間を稼いだ。
これにより伊達政宗は、辛うじて本宮城に辿り着くことができた。

伊達軍の本陣も激しい攻撃で壊滅に近い状態だったが、日没を迎えたことで一旦終結となった。

夜を迎えると反伊達連合の佐竹本陣で大事件が起こった。
佐竹義重の重臣・小野寺義昌が家臣との口論の末に刺殺されてしまったのだ。
更に追い打ちをかけるように常陸国の使者から、北条方の江戸重道と里見義頼が本国に攻め寄せようとしているという火急の報せ舞い込んできた。

佐竹義重・義宣は、早期決着するため自軍の大半を率いてきたので、常陸国内は手薄状態となっていた。
江戸重道と里見義頼に本拠地を占拠されると、伊達政宗との挟み撃ちで自分たちが窮地に陥る危険性があった。

佐竹義重は、自国を守るために直ぐに撤退を決定した。
これに対して、佐竹に代わって連合軍を統率できる者がいるはずもなく、多くが佐竹と同様に撤退の意を示した。
反伊達連合軍の目的は、二本松城の救援と伊達討伐であったが、勝利を目の前にして瓦解するというお粗末な結果に終わったのだ。

小野寺義昌の刺殺、北条方による常陸国侵攻は伊達側による裏工作が働いたのではないかと言われている。 *諸説あり
いずれにしても、このことが伊達政宗を窮地から救うことになった。
この合戦は、戦だけで見れば反伊達連合軍の圧倒的勝利と言えたが、戦略面では伊達に対して決定的な打撃を与えたとは言えなかった。
逆に伊達軍は、これを弾みに勢いをつけていくこととなった。

その後

本宮城から岩角城に移った伊達政宗は、反伊達連合軍が撤退した後も警戒を解くことはなかった。
その後、岩角城から小浜城に引き上げたが米沢には戻らず、ここで正月を迎えた。

伊達政宗は、春を迎えると再び二本松城攻めを開始するが、長期戦を見こして兵糧攻めで追い込むことにした。
一方の畠山勢は、救援も期待できず先の見えない籠城戦で、城内の士気は徐々に低下していった。

1586年(天正14年)7月16日
相馬義胤の幹施を受けて、二本松城が伊達軍に無血開城された。
この戦いは、父・伊達輝宗の弔い合戦であったため、畠山勢を殲滅することもできたが、当主・(畠山)国王丸を会津蘆名家への退去させ、二本松城を手に入れたことで成し遂げたこととした。




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新たな二本松城主は、人取り橋の戦いの功労者・伊達成実となり、奥羽覇権に向けて大きな足掛かりを掴むことになる。
伊達政宗は会津・蘆名領への武力侵攻を推し進め、これが摺上原の戦いへと繋がっていった。

(寄稿)まさざね君

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