摺上原の戦いの解説~独眼竜・伊達政宗と滅びゆく名門・蘆名氏

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摺上原の戦いとは

「人取り橋の戦い」で、反伊達連合軍を相手にしながら九死に一生を得ただけでなく、戦いにも自信を持ち始めた伊達政宗
今回は、奥州制覇が現実的なものとなった「摺上原の戦い」について解説する。

第20代当主・蘆名義広
蘆名義広は、1575年(天正3年)に佐竹義重の次男として生まれ、4歳の時に(白河)結城義親の養子となる。

1586年(天正14年)11月21日
蘆名家の第19代当主・亀王丸が疱瘡を患い3歳で亡くなると、第20代当主を巡って伊達政宗は弟の小次郎(伊達政道)、佐竹義重は次男の結城義広を擁立したため争いが勃発。




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蘆名家も両派に分かれ混迷していったが、佐竹派で重臣の金上盛備(かながみ もりはる)の政略によって流れが一気に蘆名家へ傾く。
1587年(天正15年)蘆名盛隆の養女と結婚したことで第20代当主は蘆名義広となった。
蘆名義広が当主となると、12歳と年齢が若かったことから、大繩義房を中心とする佐竹家臣団が送り込まれた。
新参者の佐竹家臣団が大きな力を持ち始めたことで、蘆名家中の統制崩壊が深刻なものとなった。
また、家督争いに加担していた蘆名家と伊達家の関係も決定的な決裂へと繋がっていった。

郡山合戦

1588年(天正16年)
人取り橋の戦いから3年後、会津の蘆名領に向けて勢力拡大を伺っていた伊達政宗は、蘆名義広・相馬義胤の連合軍と安積郡の郡山城と窪田城の一帯を巡って小競り合いが40日間続くこととなる。

それと同時に陸奥大崎5郡を支配していた大崎氏の内紛に介入して勢力拡大を狙った。
伊達政宗は、義兄の大崎義隆に味方して参戦したが、母の義姫が停戦を懇願したため終結を迎え、この介入(大崎合戦)は結果として失敗に終わった。

蘆名氏と相馬氏による連合は、伊達政宗と同盟関係にあった三春城主・田村清顕が亡くなった後の家督をめぐる混乱(天正田村騒動)に乗じた相馬義胤の田村領侵攻と蘆名義広による伊達領侵攻の利害関係が一致したものであった。

蘆名義広は、大内定綱に先鋒を命じ4千の兵で伊達領に侵攻。
苗代田城を攻略すると郡山城や窪田城にも攻撃を開始した。

この地域を含む伊達領南部を統括していた二本松城主の伊達成実は、蘆名軍の侵攻に対応するため、大森城主・片倉景綱、宮森城主・白石宗実に援軍を要請したが、自軍と合わせても6百ほどの兵しか揃わなかった。

また、小手森城城主・石川光昌が相馬義胤のもとに離反したことで、さらに追い込まれる状況となった。

一方、伊達政宗は相馬義胤による侵攻に備えるために、軍勢を率いて相馬領との境界に布陣していたため、援軍に行ける状態ではなかった。

伊達成実は、この状況を打開するために奇策を講じる。
かつて伊達政宗に領国を追われ会津に逃亡した大内定綱を伊達氏へ帰順することを持ちかけた。
これは大内定綱が蘆名氏から冷遇されていたことを知った上での帰順の話だった。

蘆名家中は、影響力を増す佐竹家からの新参家臣と蘆名譜代の家臣の間で二分化されていたため、蘆名譜代傘下の大内定綱は常に厳しい立場に置かれていた。

さらに伊達成実は、大内定綱だけでなく弟・片平親綱も帰順させることで、会津攻略に必要な片平城を起点とし、未だに伊達氏に対して反抗を続ける旧臣らを抑えることもできると考えた。
この策を伊達政宗に伝えると、大内定綱に伊達郡、長井郡の所領を与えるという了承が得られ、同意した大内定綱は伊達に帰順することとなった。

1588年(天正16年)4月
大内定綱の離反を知った蘆名義広は激昂し、伊達と大内を討つべく本宮城に攻め寄せた。
しかし、阿武隈河畔で待ち伏せしていた大内定綱に襲撃されて敗走を余儀なくされた。

蘆名からの圧力を恐れていた弟・片倉親綱も翌年(1589年)に伊達へ帰順したことで片平城の伊達傘下となったが、蘆名義広は人質の母親を見せしめとして殺害した。

1588年(天正16年)7月
郡山城と窪田城の一帯を巡っての小競り合い(郡山合戦)が、長期戦の様相を呈してきたことから、岩城常隆と石川昭光が和議の仲介を打診したことで両軍は撤退した。

伊達の策略

1589年(天正17年)4月
相馬義胤と岩城常隆が天正田村騒動(家督争い)に乗じて田村領に侵攻したため、三春城に田村宗顕綱らが籠城して伊達政宗からの救援を待った。

伊達政宗は、同盟勢力の田村氏を救援すべく米沢城を出陣し、大森城で2万の軍を編成し、
相馬領と蘆名領への同時侵攻を決行することとした。

伊達政宗本隊は、相馬領へ向けて出陣。
大森城の片倉景綱は、残りの兵を率いて二本松城へ入城した。
その後、本宮城で伊達成実らと合流すると、伊達政宗本隊が到着するまで安子ヶ島城、高玉城の攻略と蘆名の反佐竹派調略を行うこととした。

1589年5月4日
片倉景綱らは、安子ヶ島城に迫り開城させると、高玉城も落城させた。
高玉城は、小手森城と同様に城内の全員が殺害されたと言われている。

1589年5月18日
伊達政宗本隊の相馬領侵攻は、三春城攻撃を早急に終息させるための策だった。
これを知れば、相馬義胤が急ぎ相馬領へ退却するという確信があった。
相馬義胤が撤退すれば、岩城道隆が単独で三春城攻略することは困難なため、同じく撤退することも予想された。

守備の手薄な相馬領に侵攻した伊達政宗本隊は、伊達防衛の拠点である駒ヶ嶺城を攻め落とすと、20日は蓑首城も崩落させ、相馬義胤が動くまで駐留した。
相馬義胤の三春城撤退を確認した伊達政宗は、蓑首城を出立して安子ヶ島城へと向かった。

安子ヶ島城と高玉城を攻略された蘆名義広は、兄の常陸国佐竹義宣に援軍を要請した。
佐竹義宣率いる1万5千の佐竹軍は、須賀川城に向けて進軍すると、蘆名義広率いる蘆名軍1万も須賀川城へ向かった。

1589年5月27日
須賀川城に合流した佐竹・蘆名の両軍だが、佐竹軍は豊臣秀吉による惣無事令に従うため、伊達軍が攻め込んできた時しか軍隊を動かすことが出来なかった。
そこに会津から火急の報せが届いた。

1589年6月1日
猪苗代城で隠居していた猪苗代盛国が、嫡子で当主の猪苗代盛胤が会津・黒川城にいた隙を狙って謀反を起こして伊達に寝返った。
これは、伊達成実の粘り強い調略によるもので、伊達側にとって大きな成果といえるものだった。

蘆名氏にとって猪苗代城を奪われるということは、喉元に刃を突きつけられたものと同じであったため、蘆名義広は急遽会津へ引き返すこととなった。
惣無事令によって会津領に入れない佐竹義宣は、常陸国から連れてきた募兵を蘆名義広に預け帰国の途についた。

猪苗代盛国の裏切りは、譜代の家臣にも関わらず重要な役職から外されるなど冷遇されていたためと言われている。
伊達政宗は、片倉景綱、伊達成実らを猪苗代城に入城させると、一帯の守備固めだけでなく、蘆名との決戦の場についても調べるように伝えた。
また、米沢城の原田宗時に会津の北にある大塩城の攻略を命じた。

1589年6月4日
伊達政宗が猪苗代城に入城したことで伊達全軍が猪苗代に集結し、蘆名との決戦準備が整った。

蘆名義広は、1万6千の兵を率いて黒川城を出陣。
猪苗代の高森山に着陣すると、伊達軍を挑発するために周辺の民家に火を放ったりした。
この蘆名軍は、佐竹、石川、二階堂の援軍兵が多数含まれ、蘆名家内も分裂していたため寄せ集め集団に近いと言えた。

また、伊達政宗は、決戦直前まで蘆名家内の不協和音を利用した調略を続けていた。
この執拗な調略によって、重臣の富田美作守、佐瀬河内守らが合戦に加わらず傍観するという確約を得たことで戦が有利に進んでいくこととなる。

摺上原の戦い開始

1589年6月5日 早朝
伊達政宗率いる伊達軍2万5千は、磐梯山を背にして決戦の場である摺上原(すりあげはら)に着陣。
先陣を猪苗代盛国、第二陣と三陣を片倉景綱、伊達成実、第四陣を鬼庭綱元、白石宗実、第五陣に伊達本隊
で構成された魚鱗の陣を敷いた。

ただ、東側に着陣した伊達軍は、強い西風によって土埃などで目を真面に開けることが出来なかった。
あえて不利な場所に着陣したのは、猪苗代盛国の助言によるもので、この時期の摺上原の朝方は西風が強く、昼過ぎから東風に変わるため、最初は相手の攻撃に耐えなくてはいけないが、風が変わったら一斉攻撃を仕掛けて壊滅させるためだった。
これは調略により、敵兵が実際よりも少ないことも想定されていた。

蘆名義広も高森山から摺上原に向けて軍の移動を開始し、摺上原の西側に着陣。
先陣は猪苗代盛国の嫡男・盛胤。
猪苗代盛胤は、父・盛国の不忠を強く恥じて、汚名返上のために願い出たものだった。

先陣である猪苗代親子の激突が、この合戦の合図となった。
猪苗代盛胤隊の勢いは凄まじく、父・猪苗代盛国隊の陣形を難なく崩すと、第二陣の片倉景綱隊にも突撃して後退を余儀なくさせた。

猪苗代盛胤隊に続き、蘆名軍の第二陣、三陣も突撃させたことで、伊達の先陣・猪苗代盛国隊は総崩れとなった。
伊達軍の第二陣、三陣も総崩れの危険性があったため、本隊の守備にあたっていた第四陣の鬼庭綱元、白石宗実が蘆名軍の側面攻撃を仕掛け、風が変わるまで少しでも時間稼ぎすることに集中した。

この流れのまま伊達政宗本隊に総攻撃を仕掛けたい蘆名義広。
第二陣、三陣に続くように富田美作守、佐瀬河内守に命令を下すが、全く動く気配がなく傍観を決め込んでいた。

昼に近づくと、これまで西から東へと吹いていた風が止みはじめ、東から西へと強い風が吹き始めた。
風向きが逆に変わったことで、戦況が一変することとなった。
これを待っていた伊達政宗は、温存しておいた鉄砲隊を前面に出すと蘆名軍に向かって一斉射撃をおこなった。
この時の蘆名軍は向かい風だったために序盤戦の伊達軍と同様、目を開けることも困難な状況だった。

混乱状態となった蘆名軍に向けて伊達軍の総攻撃が始まると離脱者が相次ぎ総崩れとなった。
そんな中、蘆名家重臣の金上盛備隊が奮闘するも片倉景綱隊によって壊滅されてしまった。
これまで傍観をしていた富田美作守らは、蘆名軍の総崩れを確認すると独断で撤退を開始した。

この撤退が総崩れに拍車をかけることとなり、多くの者が会津へ向けて逃げ出した。
敗走を続ける蘆名軍は、我先に日橋川へ殺到するが唯一の橋が猪苗代盛国によって崩落されていたため、先に進むことが出来なかった。
そこに追撃する伊達軍が追い込みをかけ、次々と押し出され川に落ちる者が続出して多数の溺死者を招くこととなった。
このとき溺死した兵は2千とも言われている。

蘆名義広は、渡河した僅か30騎に守られて黒川城に入城するが、城内の逃亡兵が相次いでいたため城を守るだけの余裕は残っていなかった。
籠城が困難であると判断すると、そのまま城を捨てて白河城へ向けて敗走した。
その後、父・佐竹義重を頼り常陸国へと逃げ延びていった。

摺上原で繰り広げられた合戦は、午後4時頃に蘆名軍の完敗で決着がつき、鎌倉時代以来の名門・蘆名氏は滅亡となった。

その後

6月11日 伊達政宗が黒川城へ入城。
その後、居城を米沢城から会津・黒川城へ移した。
蘆名旧臣の多くを恭順させたが、抵抗を続ける残党を討伐するため横田城、梁取城など崩落させ会津を平定した。
伊達政宗は、合戦の勝利により蘆名氏累代の所領である会津、大沼、耶麻、安積郡の一部、下野国塩谷郡の一部、越後国蒲郡軍の一部など広大な土地を手中に収めることとなった。
また、これまで蘆名側だった石川氏、二階堂氏などの諸将も降ったことで奥州最大の強大な勢力となった伊達氏。




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これで念願の奥州覇者となった伊達政宗だが、豊臣秀吉の発した「惣無事令」に反したとして、後に蘆名氏から奪った所領が没収されてしまうのだった。

(寄稿)まさざね君

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