もう一つの小田原城の戦い【大槻合戦】戦国時代・上杉謙信と北条氏康の攻防 

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小田原城の戦いといえば、関白・豊臣秀吉が率いた2万の兵に包囲され3ヶ月の籠城戦に耐えたが、支城の崩落、重臣による内応、一門による降伏などにより開城したことで、関東一円を支配した北条氏の滅亡へと繋がったというのが有名です。

実は、この戦いの20年前にも小田原城が長尾景虎(上杉謙信)率いる10万の連合軍に包囲され攻撃されたことがありました。
「軍神」上杉謙信と「相模の虎」と呼ばれた北条氏康は、関東の支配を巡って何度も衝突していたのです。




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河越夜戦~北条氏康による戦後処理

扇谷上杉氏の滅亡
河越夜戦で総大将・上杉朝定を倒して扇谷上杉氏を実質的に滅亡させたことで、永年の争いに終止符をうった北条氏康。

関東支配を更に進めようとする北条氏康は、上総国・里見義堯佐貫城を攻めますが、扇谷上杉氏の旧臣・太田資正の岩槻城を攻略されてしまいました。
岩槻城を奪還した太田資正は、勢いに乗じて武蔵・松山城を攻め込みます。


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しかし、岩槻城の留守居をさせていた上田朝直が、北条氏に寝返ったため太田資正は降伏せざるを得ませんでした。
これにより、扇谷上杉氏の勢力は完全に崩壊したのです。

山内上杉憲政の逃避
次に標的となったのは山内上杉氏。
河越夜戦での惨敗後、北条氏康の圧力によって衰退の一途を辿っていました。
何とか関東管領としての勢力を取り戻したいと考えた上杉憲政。

信濃・村上義清らと上信同盟を結ぶなどしますが上手くいかず、本拠・平井城を北条氏康に攻略されるのも時間の問題だったのです。

1552年(天文21年)
北条氏康は、山内上杉氏に圧力をかけるために武蔵国の拠点・御嶽城を攻め込みます。
御嶽城には関東管領・上杉憲政の嫡男・竜若丸がいましたが、降伏すると処刑されてしまったのです。

その報告を受けて身の危険を感じた上杉憲政は、拠城・平井城を放棄して重臣・長尾憲景の居る白井城へ移ります。
しかし、ここが攻略されるのも時間の問題と思い、越後国で勢力を拡大していた長尾景虎(上杉謙信)に頼って庇護下となります。

一方、上総国に進出した北条氏康は、桐生城、白井城、上野・沼田城などを次々と攻略しながら制圧していったのです。

古河公方の家督委譲
1552年(天文21年)12月
河越夜戦の直前に北条氏康を裏切り、敵対関係にあった古河公方・足利晴氏。
北条氏康の妹・芳春院を正室に迎えていたことから、嫡子の足利藤氏を北条氏康によって廃嫡させられます。
そして、芳春院の子・梅千代王丸(足利義氏)を家督に委譲させたのです。

古河公方の任を解かれた足利晴氏と藤氏の父子は、権力を一切奪われ隠居させられてしまいます。
しかし、一方的な委譲によって全ての権力を奪われた足利晴氏父子は、突然反旗を翻して下総・古河城に入城したのです。

1554年(天文23年)
北条氏康は大軍で古河城を包囲して攻略すると、今度は足利晴氏父子を幽閉したのです、

1558年(永禄元年)
本拠地を下総国・関宿城に移した足利義氏が正式に関東公方へ、北条氏康が執権を担う関東管領となったのです。
これにより、上総国・下総国の一部を治め、関東管領にも就いた北条氏康。
関東において最大勢力と絶対的な権力を持つことになったのです。

甲相駿三国同盟

  
河越夜戦後、関東制覇に向けて勢力拡大をするには、西や北方面からの脅威を抑える必要がありました。
北条氏康は、敵対関係にあった今川氏と武田氏に対して行動を起こします。

1554年(天文23年)
北条氏康は、娘(早河殿)を駿河国・今川義元の嫡子・今川氏真へ嫁がせます。
そして、甲斐国・武田信玄の娘(横梅院殿)の嫡子・北条氏政の正室として迎え入れます。
この婚姻関係により、北条氏と微妙な関係にあった今川氏と武田氏は「甲相駿三国同盟」を結ぶことになるのです。
表向きは婚姻関係で絆を結んだものですが、この同盟はお互いにとって利点が一致するのもだったのです。

今川氏と北条氏
北条早雲北条氏綱の頃は、今川氏と北条氏は良好な関係にありました。
しかし、今川義元が当主になると、北条氏と敵対関係にあった武田氏と一歩的に同盟を結んだり、今川義元の正室として武田信虎の娘(帝恵院)を迎えるなどをしたため関係が悪化したのです。

これは、軍師・太原雪斎による策謀とも言われています。
そして今川氏と北条氏は、河東の乱など何度か交戦を繰り返すことになったのです。

他にも今川氏は、軍師・太原雪斎の戦略によって三河国にまで勢力を拡大しますが、尾張の織田信秀と一進一退の交戦を繰り返していました。

何とか三河国を制圧したい今川義元は、同盟を受け入れることで、織田信秀の戦いに専念できるという利点があるとして同盟関係を結んだのです。

武田氏と北条氏

甲斐国を統一した武田信玄は、信濃国への侵攻を繰り返していました。
ようやく北信濃の村上義清を破り勢力を拡大しますが、そこに生涯の宿敵が現れます

武田信玄に敗れた村上義清は、「軍神」または「越後の虎」と呼ばれた長尾景虎(上杉謙信)を頼って領土奪還の協力を訴えたのです。
義を重んじる長尾景虎(上杉謙信)は、これを受け入れると北信濃に向けて軍を率いたのです。

その後、北信濃をめぐって長尾景虎(上杉謙信)と武田信玄は、有名な「川中島の戦い」も含めて12年間にわたり何度も激しい戦いを繰り返していくこととなるのです。

そのため信濃方面への勢力拡大を続ける武田信玄は、後背の不安を取り除く必要があったのです。

以上のことから甲相駿三国同盟は、それぞれの野望という利点が一致したことで結ばれたものだったのです。

小田原城の戦い(大槻合戦)に至るまで

里見義堯との抗争
甲相駿三国同盟の成立により、後背を気にすることなく関東制覇に乗り出す北条氏康。
上総国を制圧するため久留里城を本拠としていた里見義堯を標的にすると、上総の国衆に対して策動を開始したのです。

里見氏から離反者を出して力を削ぎ落すことで、侵攻による自軍の犠牲を最小限に減らそうとしたのです。


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1560年(永禄3年)
北条氏康は、策動などにより一定の効果が見られたとして、上総国(房総半島)に向けて侵攻を開始すると、沿岸部の金谷城などだけでなく本拠・佐貫城も攻略してしまったのです。
この戦によって里見氏の領地は、上総西部のほとんどが奪われてしまいました。

里見義堯は、佐貫城から逃れると内陸部にある久留里城を新たな本拠とします。
そこを拠点として北条氏に味方した国人衆を鎮圧したりしますが、北条氏に痛手を与えるまでにはいきませんでした。
また、関東で絶対的な勢力を持った北条氏に対して、里見氏と協力して対抗しようする者もいませんでした。

北条軍が久留里城を包囲すると、籠城による徹底抗戦を決意した里見義堯。
越後の長尾景虎(上杉謙信)に向けて援軍を要請します。
これは、城を包囲され関東で頼れる者がいない里見義堯にとって、窮地に追い込まれた唯一の策だったのです。

関東管領・山内上杉氏を追い出し、扇谷上杉氏を滅亡させ、一方的に自分の血筋を古河公方に据えた北条氏康を良く思っていなかった長尾景虎(上杉謙信)。
里見義堯の援軍要請を受け入れると北条征伐へと動き出します。

里見義堯が長尾景虎(上杉謙信)と手を結んだことで、北条氏に対して危機感を抱いていた常陸国・佐竹氏、下総国・宇都宮氏、扇谷上杉氏の旧臣・太田資正らが同調してきます。

越山

1560年(永禄3年)8月
長尾景虎(上杉謙信)は、関白・近衛前久と関東管領・上杉憲政を奉じ、幕府方からの大義名分を得たこともあり、8千の兵を率いて越後を出陣します。

越山して関東に侵入すると、同年10月に上野・沼田城を攻略して城主・北条氏秀を追い払います。
その後も岩下城、厩橋城の攻略に成功すると厩橋城を関東攻めの拠点としたのです。
そこから上野国だけでなく武蔵国の那波城、羽生城なども攻略していったのです。

一方、北条氏康は里見義堯の拠城・久留里城を包囲していましたが、長尾景虎(上杉謙信)の襲来の報告を受け、包囲を解くと河越城を経由して武蔵国・松山城に入りました。

長尾景虎(上杉謙信)は、北条征伐の進軍を続けながら、関東の諸将に向けて参陣を呼びかけます。
関白・近衛前久と関東管領・上杉憲政を奉じていたこともあり、これまで様子を伺っていた者たちが次々と参陣してきたのです。

1560年(永禄4年)12月
武蔵「河越城」・下総「古河御所」を包囲されただけでなく、長尾景虎(上杉謙信)もとに次々と諸将が集まっていると報告を受けた北条氏康。
直ぐに武蔵国・松山城を出発すると、本拠・小田原城へ帰還して籠城による徹底抗戦に備えることにします。

下総の古河御所を制圧した長尾景虎(上杉謙信)は、北条氏康が擁立した古河公方・足利義氏を追放します。


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里見義堯は、長尾景虎(上杉謙信)の救援により、奪われた上総西部の領地を取り戻すことが出来ました。
この長尾景虎(上杉謙信)による関東侵攻と北条氏康の本拠・小田原城への撤退は、関東の諸将に大きな衝撃を与えることになったのです。
これまで北条方だった上総国・武蔵国の国衆の多くが、長尾景虎(上杉謙信)に寝返り、小田原城を包囲するころには10万の大軍に膨れ上がったと言われています。




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小田原城の戦い

*この戦いについての詳しい史料が見つかっていないため諸説あります。

1561年(永禄4年)3月
小田原城を包囲するころには、10万の大軍を従えることとなった上杉謙信。
それは、「上杉連合軍」と呼べるまで巨大化していたのです。

上杉連合軍の先陣が大槻で北条家家臣・大森秀信の部隊と激突します。
その後も小田原城に向けて南下を続けると曽我山でも交戦して、諸城を攻略しながら包囲網を狭めていったのです。
3月下旬に長尾景虎(上杉謙信)は、酒匂川近くに本陣を張ったのです。

攻防は小田原城にまで及び、山内上杉氏の旧臣・太田資正が大手門「蓮池門」へ突入するなどしますが、北条軍の粘り強い応戦により、侵入までに至りませんでした。
また、城下に火を放って挑発なども繰り返しますが、北条軍が打って出てくることはありませんでした。

北条氏康は、10万の大軍に包囲され絶体絶命の危機かと思われましたが、全く焦るようなことはなく冷静に戦況を分析していたのです。
何故なら、城を包囲している多くの兵は、長尾景虎(上杉謙信)が率いてきた兵ではなく、短期間で集まった兵だったというのが大きな理由でした。
包囲軍の指示系統が整っていないことで、味方同士での争いを起こしていたのです。

大きな進展のないまま日にちが1ヶ月ほど経つと、兵糧が厳しくなっただけでなく、仲間同士の争いが多発して秩序も乱れ、士気も低下してきたため包囲を解いて退却することになりました。

長尾景虎(上杉謙信)は、帰路の途中に鎌倉・鶴岡八幡宮を参詣します。
ここで正式に山内上杉氏から関東管領の名跡を継承すると、長尾景虎から上杉政虎へ改名したのです。
また、古河公方の候補について評定を開き、古河公方に足利藤政を推すことでまとまったのです。
この関東遠征は、最終的に10ヶ月に及ぶものとなりました。

北条氏康は、この戦いで幾つかの支城を落としますが、玉縄城、河越城など拠点となる北条直下の支城は落城することはありませんでした。
そして、上杉政虎(上杉謙信)が越後国に戻ったことを確認後、関東侵攻によって奪われた葛西城などを次々と奪回したのです。


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その後、北条氏康が勢力を拡大しようと動き出すと、もう一人の関東管領・上杉謙信が越山してせめぎ合うことが続くようになりました。
この争いは、桶狭間の戦いによって今川氏が衰退し、武田信玄が今川領を侵攻したことで、甲相駿三国同盟が崩壊するまでの数年間続くことになります。

その後
小田原城は、10万という大軍に包囲されるが攻め手を許さず落城しなかったことから名城として天下に名を轟かせることになります。
上杉謙信は、関東遠征(北条討伐)によって、関東の多くの諸将を参陣させただけでなく。関東管領に就任したことなどから、戦国大名として全国に名を知らしめることになったのです。

(寄稿)まさざね君

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