石垣原の戦い「もうひとつの関ヶ原・九州編」黒田官兵衛

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捲土重来

捲土重来(けんどちょうらい)、本能寺の変後、豊臣秀吉の天下統一に最も貢献した軍師・黒田官兵衛こと黒田如水。
しかし、朝鮮出兵後、豊臣秀吉から疎まれるようになると表舞台から遠ざかり、家督も嫡男の黒田長政に譲って隠居してしまいます。

ただ、隠居であれば戦や政から離れて静かな生活を送るはずですが、黒田官兵衛は違いました。
国の中心で起きている情勢を鑑みて虎視眈々と己の秘めた野望を叶える機会を窺っていたのです。




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豊臣秀吉が死去したことで、遂にその時が訪れます。
天下分け目の戦いとなる「関ヶ原の戦い」が決定的となる直前に九州で行動を起こします。
「九州の関ヶ原」と呼ばれる石垣原の戦いです。

九州と黒田官兵衛

1586年(天正14年)
九州平定において豊前国(福岡県)の諸城を攻略し、最終的には島津氏を降伏させ平定を完了。
豊臣秀吉に功績を讃えられ、豊前国に12万石を与えられた黒田官兵衛。
ここから黒田家と九州は、密接に関係していく事になります。

これまで、豊臣秀吉の側で仕えていたにも拘らず、遠く九州・豊前国を与えられたのは、知略を恐れて疎ましくなったと言われていました。
しかし、最近では統治が難しいと言われた九州を優れた知略で治めてもらうために任せたのではないかというのが有力説のようです。

◆肥後国人一揆

黒田官兵衛が豊前国を任された頃、佐々成政が統治していた肥後国(熊本県)で国人一揆が起こります。
この一揆の原因は、佐々成政が早急な領国化を進めるために一方的な検地を行ったことでした。

これにより肥後国中の国人の不満が爆発。
3万人を超える大規模な一揆によって居城・隈本城が包囲されたり、主たる家臣が討ち取られるなど自軍では抑えきれない状態になってしまったのです。




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このままでは、肥後国が国人衆に抑えられてしまうと思った佐々成政。
豊臣秀吉に援軍要請という苦渋の決断をします。
豊臣秀吉は、直ぐに鍋島直茂安国寺恵瓊に救援に行くように命じて派兵しますが、伏兵に襲われ救援が失敗します。

そこで、豊臣秀吉は国人一揆を早期解決させるため、小早川秀包を総大将とした九州・四国の大名を総動員して肥後国に派兵します。
数か月後、これによって国人一揆を鎮圧することができました。

自国の混乱を抑えきれなかった佐々成政。
一揆の原因を作った事を追及され切腹へ追い込まれたのです。

この九州は、昔から独立志向の強い国人が多くいたため、守護など権力者に対して反発して一揆などを起こすことも少なくなかったのです。

◆豊前国一揆

肥後国一揆は、黒田官兵衛にとっても他人事ではありませんでした。
新たな領主として豊前に入国したことで、これまで豊前を統治していた宇都宮鎮房(しげふさ)は国替えを命じられたのです。

しかし、先祖伝来の地を守りたい宇都宮鎮房は、国替えを拒否します。
これにより、国替え地である今治12万石が没収されただけでなく、豊前の城からも即時撤去することになったのです。

その後、宇都宮家の旧領土の一部を借り受けることで騒動は一旦収まりますが、豊前国の国人の多くが宇都宮家の分家だったという事もあり、新しい領主・黒田官兵衛を快く思っていませんでした。

豊前の国人・法寺久信が、黒田家に臣従していた国人・広津鎮種を襲撃したことが火種となって宇都宮鎮房も挙兵します。
この挙兵により、豊前の国人衆だけでなく多くの領民も加担したことで豊前全土に一揆が広がっていったのです。




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その頃、黒田官兵衛は、佐々成政が統治していた肥後で国人一揆が勃発したため救援に向かっていたのです。
しかし、豊前での一揆の報せを受けると、小早川隆景に肥後の一揆を任せて急ぎ帰還します。

挙兵した宇都宮鎮房は、兵糧の略奪や放火などを展開して黒田家を牽制していったのです。
留守を任されていた嫡男・黒田長政は、痺れを切らして父の出陣許可を得ないまま、約2千の兵を率いて出撃します。

それを待ち受けていた宇都宮鎮房は、黒田長政の先鋒隊を誘い込んで壊滅させてしまったのです。
黒田官兵衛は豊前に戻って軍隊を整えると、直ぐに各地の一揆の鎮圧へ取りかかります。

黒田軍による怒涛の鎮圧によって宇都宮鎮房の一団だけとなってしまった一揆勢。
すると、安国寺恵瓊を通じて降伏を願い出てきたのです。
これにより、豊前での一揆は黒田軍によって鎮圧されました。

表面上は、豊臣秀吉によって九州が平定されましたが、統治が十分に浸透されているとは言えませんでした。
ちょっとした乱れが大きな乱れに繋がる危険性をはらんでいたのです。

黒田官兵衛が築城した中津城は三大水城と呼ばれ、水路が非常に発達していました。
このことにより、領内の物資輸送だけでなく、各地で怪しい動きがあれば数日以内に情報を入手出来るようになりました。

また、豊臣秀吉の死後、天下を揺るがす大乱が起きるだろうと考え、いざという時に準備が出来るように質素倹約に努め貯蓄にまわしていたのです。

朝鮮出兵と豊臣秀吉の死去

1592年(文禄元年)
豊臣秀吉は、中国大陸・明国制圧の前段階として朝鮮出兵を全国の諸大名に命じます。
黒田官兵衛は、朝鮮出兵の前線基地となる肥前名護屋城の縄張り奉行として城普請に取りかかった後、加藤清正らに続いて朝鮮に向けて渡海しました。

朝鮮では、遠征軍の軍監を務めますが、豊臣秀吉と戦い方などの意見が食い違うことで溝が深まってしまいます。
この時、死を覚悟した黒田官兵衛は、家族に向けて遺書を残したとも言われています。




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軍略に優れた黒田官兵衛にとっても、異国の地での戦は非常に厳しいものだったといえます。
帰国した黒田官兵衛は、剃髪して名を「如水」と改めます。
やがて、豊臣秀吉からの許しを得られますが、溝が埋まることはありませんでした。

◆豊臣秀吉の死去

1598年(慶長3年)5月頃から病に伏せるようになった豊臣秀吉。
その後も病状は回復することなく悪化を辿っていきます。

嫡男・豊臣秀頼の将来を案じた豊臣秀吉は、五大老や五奉行に「十一箇条」の遺書を出し、血判による返答をもらいます。
7月になると、徳川家康を伏見城に呼び寄せ、豊臣秀頼の後見人になるように依頼します。
そして、五大老に2度目の遺書を渡すと、8月18日に生涯を終えたのです。

豊臣秀吉死去の報せは、毛利氏の宿老・吉川広家によって黒田如水のところにも届きました。
また、死去に至るまでの経緯を知ったことで、近い将来に必ず大乱が起きることを確信すると、12月に伏見にある黒田家の屋敷へ移ったのです。
そこで、主たる大名の詳細な動向などを探り、大乱に向けての準備を整えることにしました。

豊臣家にとって脅威となる徳川家康。
豊臣秀吉の遺命に背き、有力な大名との婚儀を次々とまとめていたことで、豊臣政権内に亀裂が生じます。
これにより、前田利家と徳川家康との間で一触即発の状況となったのです。
先々を見越した黒田如水は、徳川家康に味方することで恩を売ることにします。

そんな中、徳川家康と対等に渡り合えた前田利家が死去。
徳川家康に大きく流れが傾いたことで、行動はさらに大胆なものとなっていったのです。
まずは、自分に敵対する勢力の排除に乗り出します。

前田利家の嫡男・前田利長に謀反の疑いをかけて加賀征伐を献言したのです。
これに対し前田利長は、実母・芳春院(まつ)を江戸へ人質に差し出すことで交戦を回避します。

次に上杉景勝にも同様の疑いをかけますが、直江状により会津征伐が決定的となります。
諸大名に賛同するように呼びかけ、大軍を率いて会津へ向かったのです。

不穏な動き

1600年(慶長5年)7月
会津討伐の隙をついて、石田三成を中心とした反徳川家康が決起します。
これにより、黒田如水が予感していた天下を揺るがす大乱は現実のものとなったのです。

早速、嫡男・黒田長政に毛利の宿老・吉川広家の調略を命じて東軍への寝返りを確約させます。
また一方では、西軍の大将として大坂城に入城した毛利輝元に「石田三成ら奉行衆の申し出を受け入れて大坂城に入城されたことは誠に感謝します。これで豊臣秀頼様に背こうとする者がいなくなるので、直ぐに混乱は鎮まるでしょう。」と書状を送っていたのです。

この段階では、東軍と西軍のどちらが勝つのかわかりませんでした。
そのため黒田如水は、どちらに転んでも良いように画策していたのです。

大友義統の挙兵

伏見から豊前に戻っていた黒田如水は、石田三成からの賛同要請を曖昧な返事でかわしていました。
また、嫡男・黒田長政が会津討伐に多くの兵を連れて行ったため、豊前には老臣を中心とした僅かな兵しか残っていなかったのです。

そのため、これまで蓄えていた銭や米で浪人たちを掻き集めることにします。
黒田如水のもとに集まった浪人は、9千人に膨れ上がり、蓄えによって大軍をつくり上げてしまったのです。

この頃、かつて豊後を統治していた大友義統が挙兵して豊後に向かっているとの報せが入ります。
大友義統は、朝鮮出兵での失態により改易されていました。
旧領を細川氏から取り戻すため、石田三成らの決起に賛同すると再び豊後の地に足を踏み入れようとしていたのです。




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黒田如水は、大友義統に「徳川家康の味方になるように」と書状を送りますが、全く反応がありませんでした。
挙兵した大友勢の3千は、海を越えて豊後の浜脇浦に上陸します。
すると、大友義統の上陸を知った富東城と安岐城の兵は、かつての領主・大友義統に寝返ったのです。
周辺の脅威がなくなった大友義統は、杵築城を攻めますが、細川氏の家老・松井康之らの奮闘によって攻め落とすことが出来ないでいました。

杵築城が大友勢に攻められていることを知った黒田如水。
杵築城の救援に向かうことを決定します。
これにより、黒田家の立場は東軍(徳川家康)ということになりました。

◆杵築城救援

杵築城に向けて出陣した黒田如水。
本隊は国東半島の外を迂回させ、先遣隊は杵築に向けて進軍しました。

1600年(慶長5年)9月12日
黒田軍の先遣隊が杵築に到着。
しかし、この時の杵築城は大友勢の度重なる攻撃によって落城寸前となっていたのです。

大友勢は黒田軍が杵築に到着したことを知ると、直ぐに杵築城の包囲を解いて撤退をします。
そして、石垣原にて陣を立て直したのです。




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黒田軍の援軍によって大友勢が撤退したことで、松井康之らは城を出て黒田軍と合流しました。
国東半島を迂回しながら進軍中の黒田如水のもとに、大友勢が石垣原で陣を立て直しているため決戦が近いという報せが入ります。

急ぎ救援が必要と考えた黒田如水は、攻撃予定の富東城には抑えの兵を残すことにして、挟み撃ちを避けるために杵築城の手前にある安岐城を攻めることにします。

1600年(慶長5年)9月12日
黒田如水は、安岐城を大軍で包囲すると一斉攻撃を開始します。
落城を覚悟した安岐城主・熊谷直盛は、翌日になると決死隊を結成して黒田軍に打って出ますが、兵力で圧倒する黒田軍に殲滅されてしまいます。
しかし、安岐城内に残った兵が必死に抵抗を続けていたので、城攻めは後回しすることにしました。
本隊から、一部包囲軍を残すと急ぎ石垣原へ向かったのです。

石垣原の戦い

1600年(慶長5年)9月13日の昼頃
石垣原に布陣していた大友義統が率いる大友勢。
実相寺山には松井康之の杵築勢、麓に井上九郎右衛門を大将とする黒田軍先遣隊が展開していました。
黒田軍先遣隊は、実相寺山と角殿山の間道を密かに抜けると大友勢に攻めかかります。
この攻撃によって両軍が激突します。

黒田先遣隊が一斉に攻めかかると、大友勢の吉弘統幸は打ち破られたように見せるため本陣近くまで撤退していきます。
黒田先遣隊が勢いに乗って追撃していくと、待ち伏せしていた大友勢の宗像鎮統らによる鉄砲攻撃を受けて総崩れとなったのです。




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この待ち伏せ攻撃によって、黒田軍の部将・久野次左衛門、曾我部五右衛門らが討ち取られてしまったのです。
今度は、実相寺山に向けて敗走する黒田軍の先遣隊を追撃する大友勢。
大友勢の追撃で黒田軍先遣隊と杵築勢の連合軍は、防戦一方の厳しい状況へと追い込まれていったのです。

全滅も覚悟していたところに、国東半島を迂回して来た黒田軍本隊が石垣原に到着します。
黒田軍先遣隊と杵築勢が追い込まれているのがわかると、大友勢に向けて一斉攻撃を加えていったのです。
数で圧倒する黒田軍は、瞬く間に大友勢を蹴散らして夕刻には勝利が確定的となったのです。

敗れた大友勢は、吉弘統幸、宗像鎮統など主だった部将が討ち取られました。
大友義統は、敗戦が明確になると自刃しようとしますが、家臣の田原親賢に諫められ降伏します。

石垣原の戦いは、大友勢の大将・大友義統の降伏によって黒田氏・杵築勢(細川氏)の勝利で幕を閉じました。

◆その後

石垣原の戦いで勝利した黒田如水は、9月16日に進撃を再開して安岐城に向かいます。
安岐城を大軍で包囲して開城を迫ると、翌日には開城させて守備兵の多くを配下に加えたのです。

10月2日に富来城も開城させると、安岐城と同様に多く守備兵を配下に加えていきます。
そして、10月5日には本城の小倉城を攻略したのです。




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この戦いで黒田如水は、短期間で豊後国を平定しただけでなく、貯蓄で浪人を集めたり敵兵を配下に加えて1万3千人という巨大な軍隊を作り上げたのです。 

黒田如水による豊後平定、黒田長政による関ケ原本戦での功績が評価されて黒田家は、筑前国(福岡)に52万3千石を与えられたのです。

(寄稿)まさざね君

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