河越夜戦とは~絶体絶命の危機と策謀による北条家逆転勝利とは

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河越夜戦の背景

室町幕府は、国がいくつにも分かれていた関東地方を統治するため鎌倉府を設置します。
鎌倉府の最高責任者・鎌倉公方は将軍の代理という立場でしたが、幕府派遣の関東管領が執権の職務と坂東武者の掌握をしていました。

◆確執

鎌倉公方の第四代・足利持氏は、お飾り状態に不満を持っていたため幕府へ反乱を繰り返します。
また、幕府からの度重なる諫言に耳を傾けませんでした。
業を煮やした第六代足利将軍・足利義教と関東管領・上杉憲実は、鎌倉府の討伐へと乗り出したのです。(永享の乱)
その結果、鎌倉公方・足利持氏が討たれたことで鎌倉府は滅亡します。


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その後も関東の混乱は続き、室町時代の後期になると、公方の並立(堀越公方と古河公方)、古河公方と関東管領の争乱、両上杉氏(山内上杉と扇谷上杉)の抗争、伊勢宗瑞(北条早雲)の勢力拡大など覇権争いの激化と複雑さが増したことで関東全域が泥沼と化していました。

古河公方と関東管領による争乱(享徳の乱)は、28年間も続きます。
古河公方の立場(役職)を良く捉えると、関東管領に任せておけば何もしなくてよい気楽な生活。
しかし、悪く捉えると自分が知らずに物事が進んでいるため、自分を無視して勝手にやってるみたいに感じてしまいます。

それを割り切って楽な生活を選択するのであれば争いは起きませんが、権力を持った人間の多くは、その力を行使したくなります。
古河公方も例外ではなく、関東管領との争いは必然だったといえます。
いつの時代も争いの原因というのは、同じようなことなのかもしれません。

この争いが続いたことで、上杉一族にも新たな火種が生まれます。
関東管領・山内上杉氏の庶家にあたる扇谷上杉氏が、一族内で力を持ち始めて発言力も増してきたのです。
関東管領・山内上杉氏にとって扇谷上杉氏の存在は、目障りとなっていきます。

そのため、古河公方との争いに加え、上杉氏同士の争い(長享の乱)も勃発します。
三つ巴の争いは、収まるような気配はなく膠着状態が長く続くこととなったのです。

◆北条氏の躍進

この争乱の隙をついて、駿河・今川氏の家臣から伊豆国領主となった伊勢宗瑞(北条早雲)が、関東制覇を狙って東方面へ勢力拡大していきます。
新たに北条氏が関東地方の争いに加わったことで、覇権争いは複雑かつ激化の一途を辿るのでした。

伊勢宗瑞(北条早雲)の嫡男・北条氏綱が二代目当主になると、扇谷上杉氏の居城・河越城江戸城などに攻撃を仕掛け、城を奪い取って追い詰めます。
また、房総半島にも進出して、足利氏一門の足利義明や房総の諸将(里見氏など)と国府台で合戦を繰り広げて勢力拡大をしていったのです。
伊勢宗瑞(北条早雲)から念願である関東制覇は、三代目・北条氏康にも受け継がれていきます。

北条氏による勢力拡大を苦々しく思っていた関東管領・山内上杉氏と庶家・扇谷上杉氏。
公方や一族との争いを続けている隙に相模・武蔵へと勢力拡大を繰り広げ、扇谷上杉氏の家臣であった三浦氏や大森氏を滅ぼしていたのです。

扇谷上杉氏と北条氏の溝が深くなると同時に山内上杉氏も脅威を感じ危機感を強めていったのです。
両上杉氏にとって一番の脅威が北条氏で一致したことで共闘することになります。
そこに北条氏と縁戚関係だった古河公方・足利晴氏も北条氏を裏切って合流してきたのです。
関東管領の号令で賛同する関東の武将も加わると、最終的に8万の大軍勢となったのです。
共通の敵が明確になったことで、両上杉氏による北条包囲網は着々と進んでいくことになります。

前門の虎後門の狼

1545年(天文14年)7月
かねてより北条氏の領地を狙っていた今川義元が、突然侵攻を開始します。
北条氏綱に奪い取られた領地を取り戻すことを理由に侵攻してきたのです。


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今川軍の侵攻を知った北条氏康も迎え撃つために出陣しますが、同じくして両上杉氏、古河公方らの連合軍が河越城を8万の軍勢で包囲したのです。
これは、今川氏と両上杉氏が呼応して北条氏を挟み撃ちするという作戦だったのです。

北条氏康は、駿河で今川軍と対陣しますが、そこに甲斐国の武田軍が今川軍に合流したことで状況が更に厳しくなります。
武田晴信(信玄)もまた両上杉氏の北条包囲網を呼応していたのです。
その後、北条勢は吉原城、長久保城が包囲されるなど徐々に押されていくこととなります。

1945年(天文14年)9月26日
河越城に関する間蝶からの報せが、危機的状況に追い打ちをかけます。
扇谷・山内の両上杉氏と古河公方らが武蔵・河越城を8万の軍勢で取り囲んだのです。

今川・武田軍と対陣している此処を離れられないが、河越城を失うと関東制覇が果たせなくなるだけでなく居城・小田原城も失いかねなかったのです。
両上杉氏の思惑通りに北条包囲網が成立したことは、北条氏にとって絶体絶命の危機(前門の虎後門の狼)となったのです。

しかし、思わぬところから一筋の光が差し伸べられます。
敵として向き合っている武田晴信(信玄)です。
北条氏康に今川義元との和睦を勧め、河越城の救援に向かうべきだと論じたのです。

この裏には、窮地に陥っている北条氏康に恩を売っておくことで、背後の心配をしないで信濃攻略を成し遂げられるという武田信晴(信玄)の思惑があったのです。

武田晴信(信玄)の提案を受け入れた北条氏康。
今川氏から奪い取った領地(富士川左岸一帯)を返還するという条件で和睦を提案します。
戦わずして係争地が得られる好条件に今川義元との和睦が成立します。

父・北条氏綱が攻略した領地を失うのは大きな痛手でしたが、河越城を失うことの方が関東制覇を目指す北条氏にとって損失が大きいと考えたのです。
また、西からの脅威がなくなったことで両上杉氏を一網打尽にできる好機とも捉えたのです。

今川氏との和睦は、後に甲相駿三国同盟へと繋がっていきます。
和睦が成立した北条氏康は、8千の兵を率いて河越城へ急ぎ出陣しました。

◆それぞれの士気

河越城に籠城していたのは城主・北条氏綱と3千の城兵。
8万の大軍に包囲された河越城は、通常なら直ぐに落城してもおかしくない状況でした。

その予想に反して、北条綱成を中心とする城兵の士気は高く、長期間の籠城に耐えうるだけの武器、食料も備蓄していたのです。
その結果、北条氏康が半年後に救援に来るまで落城せず耐え続けられたのです。


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一方、8万の兵で河越城を包囲していた上杉・足利連合軍の多くは、関東管領(上杉氏)の号令によって招集された武士たちでした。
終わりの見えない城攻めは、自己負担が増え続けるだけで士気は下がるばかりだったのです。

北条氏康の策謀

河越城近くに着陣した北条氏康。
間蝶から上杉・足利連合軍の動静について報せを受けます。
打つ手を見出せず包囲戦が長引いたことで、全体の士気が下がり続けて風紀の乱れた烏合の衆となっているとのことでした。

それでも8万の大軍に正面からぶつかっては勝ち目がないとして、寝返りそうな武将を選別して調略を仕掛けます。
また、上杉氏と足利氏には、戦意喪失の振りをして油断させるように仕組んだのです。

北条氏康は、間蝶を使って上杉・足利連合軍の陣内に「大軍が相手では、勝敗など誰の目にも明らかである。そのため、北条氏康は降伏して臣従することを強く望んでいるらしい。」という噂を流したのです。

同時に、上杉氏と古河公方には、「北条綱成と城兵を助命してくれれば、河越城を明け渡して小田原へ退散します。今後は、上杉氏と古河公方に臣従することを誓います。」と申し入れたのです。

噂を耳にした連合軍の兵たちは、楽勝ムードが漂っただけでなく、やっと帰郷できると喜び合ったのです。
しかし、上杉氏と足利氏は、北条氏康の申し入れを受け入れませんでした。

これまで北条氏と幾度となく争いを繰り返してきたことで領地を奪われ、重臣(三浦、大森など)も討たれるなど自尊心を酷く傷つけられたとして、この勢いに乗って北条氏を滅ぼすことを選択したのです。

上杉氏と古河公方は、北条氏康を戦場へ引きずり出すことを企みます。
早速、北条軍に対して挑発を試みますが、全く乗ってくる気配がなく、戦ったとしても小競り合い程度だったのです。

「北条氏康は戦もできない情けない者」と嘲る兵たちは、戦う気すら起こらなくなり軍隊としての秩序も崩壊しかけていました。

一方の北条氏康は、間蝶から頻繁に上杉・足利連合軍の情勢について報告を受けていました。
連合軍が策謀に嵌まり、楽勝気分で完全に気が緩んでいることを確信すると、次の行動に出たのです。

奇襲攻撃

河越城の北条綱成に間蝶を送り、上杉・足利連合軍に奇襲攻撃を仕掛けることを伝えた北条氏康。
通常であれば、8万の大軍に包囲された河越城に使者(間蝶)を送ることは不可能です。
しかし、北条氏康の策謀によって軍全体が厭戦状態だったので、難なく連絡を取り合うことができたのです。

万全を期した北条氏康は、8千の兵に鎧や兜など音の出るものを全て脱がせます。
そして、軍勢を2千ずつの隊に分けて待機するように命じたのです。

◆河越夜戦

1546年(天文15年)4月20日 子の刻
上杉・足利連合軍の背後に迫った北条軍が雄叫びとともに一斉に突撃します。
北条軍が攻めてくるなど全く想定していなかった上杉・足利連合軍は、突撃されても何のことか理解できていませんでした。

軽装で奇襲攻撃をかけた北条軍は、腕に目印となる白い布を巻き付けて判別すると、縦横無尽に討ち取っていったのです。
上杉・足利連合軍の陣内は、逃げ惑う兵で大混乱となり、北条軍も反撃の隙を与えようとしませんでした。


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城外の混乱を確認した北条綱成と城兵たちは、一斉に飛び出すと古河公方の陣に向かって襲い掛かったのです。
この時、北条綱成らは「我々が勝ったぞ!」と繰り返し叫びながら戦ったといいます。

この奇襲攻撃で上杉・足利連合軍は総崩れとなり、北条軍が大勝利を収めます。
一方、大敗を喫した上杉・足利連合軍。

扇谷上杉氏は、当主・上杉朝定が打ち取られたことで滅亡の憂き目に遭うことになります。
山内上杉氏の当主・上杉憲定は、命からがら上野国・平井城に逃げ帰ることができましたが、重臣をはじめ多くの家臣を失ったため、再興の余力は残っていませんでした。
この戦いから6年後、本拠・白井城も落とされると常陸の佐竹氏、越後の長尾氏へと流浪の人生を送ることとなります。

北条氏康を裏切って両上杉氏についた古河公方・足利晴氏は、僅かな供回りと古河城へ逃れますが、北条氏と血縁関係のある足利義氏へ家督を譲らされます。
その後は、相模で幽閉生活を送ることになったのです。

上杉・足利連合軍は1万3千~1万6千という多くの犠牲者を出しましたが、北条軍は大軍相手に致命的な打撃を受けることなく犠牲を最小に抑えたのです。

まとめ

一時は、北条包囲網によって絶体絶命の危機状況にあった北条氏康でしたが、武田晴信(信玄)の提案を受け入れ、今川義元と和睦したことで西からの脅威がなくなります。

8万という上杉・足利連合軍には、策謀で敵を完全に油断させて奇襲攻撃で大勝利をおさめます。
その結果、両上杉氏と足利氏を衰退させただけでなく、武蔵国の覇権を確立していきます。


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河越夜戦は、三大奇襲の一つとされていますが、信頼性のある資料が現存していません。
今回の解説は、『関八州古戦記録』などが元になっていますが、細部については疑問や錯誤などが残る部分でもあるので、諸説ありと捉えていただければ幸いです。

ただ、北条氏康が上杉氏(山内・扇谷)および足利氏(古河公方)と戦ったことは事実であり、この戦いによって北条氏は関東制覇の大きな足掛かりを掴むことになったのです。

(寄稿)まさざね君

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