吉田郡山城の戦いの解説~陽動作戦で敵軍を錯乱した毛利元就の作戦

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吉田郡山城の戦いとは

応仁の乱から半世紀たった中国地方では、山陽の大内氏と山陰の尼子氏が勢力拡大を図って争っていた。
安芸国・国人領主の一人にすぎなかった毛利家は、選択を間違えると直ぐに潰されてしまう弱小領主だったため、大内氏と尼子氏に付いたり離れたりを繰り返していた。
こういった行動は毛利氏に限らず、弱小国人が一族を存続させるためには当然の事といえるものだった。




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1524年(大永4年)
佐東銀山城の戦いで尼子側に属していた毛利元就は、自軍の兵の多くを失いながらも大内軍に大きな打撃を与えるという活躍を見せた。
しかし、尼子氏から与えられた恩賞は、微々たるもので対価に見合うものではなかった。
また、毛利家内で家督継承問題が起きると、尼子経久が裏で介入してきたことも重なり、尼子氏へ大きな不信感を抱く要因となっていった。
毛利元就は、尼子氏に従い続けても利を得ることは難しく、隙あれば毛利家を乗っ取られてしまうと考えるようになった。

毛利元就の家督継承

父・毛利弘元が隠居後、兄・毛利興元が家を継いでいたが、酒毒のため25歳で急逝した。
その後、2歳の嫡男・幸松丸が継ぐことになったため毛利元就は後見人となったが、幸松丸も9歳で亡くなると27歳で家督を継ぐことになった。
しかし、この家督継承に尼子経久が介入してきた。
水面下で腹違いの弟・相合元綱を反対派と共に擁立させるようにしていたのだ。
この動きを察知した毛利元就は、直ぐに封じ込めに動きだした。
擁立に動いた者を洗い出すと、謀反を企てたとして相合元綱だけでなく関係するすべて者を根絶やしにした。
これにより、お家騒動が大きくなる前に終息させることができた。

1525年(大永5年)3月
大内氏への帰参を明確にした毛利元就。
大内氏の傘下に入ったことで、褒美として新たな領地を与えられた。
これまでの毛利氏の活躍と期待の表れでもあった。

ただ、大内氏に帰参しても、尼子氏に立ち向かうには程遠いものだった。
そのため、大内氏との関係を強化しながらも尼子氏との微妙な関係は続いていくこととなった。

1530年(享禄3年)
尼子氏で内紛が起きたため尼子氏からの要請で、大内氏との間で一時的な和睦が成立。
毛利元就は、翌年の7月に尼子詮久と義兄弟の契りを結んだ。

尼子経久の隠居


1537年(天文6年)
尼子経久は80歳と老齢であったため、隠居して孫・尼子詮久に家督を継いだ。

家督を継承してからも、尼子詮久に毛利元就には警戒するように繰り返し伝えていた。
毛利元就は安芸の一国人に過ぎなかったが、戦の上手さ、お家騒動での察知力と決断の速さを見ていたからだった。

1538年(天文7年)
新当主となった尼子詮久は、勢力拡大に向けて積極的な外交政策に乗り出した。
大内領の石見銀山を攻略し、因幡国も平定すると、東の備中・播磨方面へ勢力拡大していったのだ。

1536年(天文5年)
一方、西へと勢力を拡大していった大内義隆は、太宰大弐に叙任されたことで、北九州を攻略する大義名分を得ることができた。
肥前・筑前の守護大名・少弐氏を殲滅するため、重臣・陶興房を総大将として出陣させた。
肥前に侵攻すると龍造寺氏と共に肥前多久城を攻めて、第16代当主・少弐資元を自害へ追い込んだ。
これにより北九州地方の平定がなされ、本家の龍造寺胤栄を肥前守護代に任じた。

1538年(天文7年)
室町幕府第12代将軍・足利義晴の仲介により、豊後国の守護大名・大友義艦と和睦を結んだ大内義隆。
北九州で内乱が起きぬように基盤固めを進めていった。

尼子氏の勢力拡大は、遅かれ早かれ毛利氏の安芸侵攻に繋がることは間違いなかった。
毛利元就は、大内氏との結びつきを強くするため、嫡男の毛利隆元を人質として差し出したことで、反尼子氏という態度と大内氏の傘下であることを明確なものとした。
この一方的な離反は、尼子詮久の怒りを買うことになり、安芸(吉田郡山城)の侵攻へと繋がっていく事となった。

尼子軍の出陣

1539年11月
尼子氏に対して明らかな敵対行為を示した毛利元就。
激怒した尼子詮久は、月山富田城で評定を開くと毛利討伐を決定した。
しかし、この評定で祖父・尼子経久と叔父・尼子久幸は、いきり立つ家臣たちを諭すように慎重論を唱えた。
毛利元就が尼子氏に対して明らかな敵対行為を示したということは、何かしらの勝算があるものと考えられので、軽はずみな挙兵はすべきではないということだった。

まだ若く血気盛んな尼子詮久は、祖父・尼子経久と叔父・尼子久幸を年老いた「臆病野州」と罵り聞く耳を持たなかった。
「野州」とは、尼子久幸の官位が下野守だったためと言われている。
尼子詮久は、各所から3万の兵を集めると安芸へ向けて出陣した。

ただ、最近の歴史研究では、これまでの通説が異なっていた。
尼子氏の傘下・平賀氏の居城・頭崎城が大内軍の攻撃に遭って崩落。
同じく尼子氏の傘下・武田氏が守る佐東銀山城も崩落の危険に立たされていたが、武田氏は内紛を抱えて自軍の統率が困難状態だった。
そのため尼子氏に救援を求めたのだが、さらに隣接する毛利氏の討伐も要請したのが、吉田郡山城の戦いに繋がったと言われている。




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1540年(天文9年)6月
尼子軍が安芸に侵攻すると、幾つかの隊に分かれ吉田郡山城に向けて進軍した。
叔父・尼子国久の率いる新宮党は、備後路からの侵入を試みた。
新宮党とは、尼子家中の精鋭部隊とされる集団で、月山富田城の北麓・新宮谷に構えていたことから、そのように呼ばれるようになった。
しかし、備後路からの侵入は、毛利氏と血縁関係の宍戸氏(宍戸元源・宍戸隆守など)による必死の防戦によって、進軍を諦め撤退を余儀なくされた。

1540年(天文9年)8月
尼子詮久が率いる尼子本隊は、備後路を避け石見路からの侵入を試みた。
9月4日に吉田郡山城の北面に到着した3万の尼子軍は、風越山に陣を敷いた。

籠城戦

これを迎え討つ毛利元就は、吉田郡山城に家臣を集めると籠城へ向けて防御態勢をとった。
城内は2千4百の家臣だけでなく、農民、商人など領民も多数招き入れたことで約8千人が籠城することになった。
吉田郡山城は、籠城戦に耐えるため山全体が多くの曲輪で配置され、周囲は堀や土塁などで幾重にも防御線が張られて長期籠城戦にも耐えられるような構造となっていた。

城を落とすことは容易でないと考えた尼子詮久。
大軍で城を包囲することはせず、城の周囲に点在するように陣営を固め、いつでも総攻撃できるように見せつけた。

籠城していた毛利元就は、尼子軍を挟撃するため大内氏へ救援を要請した。
籠城戦において救援に来た軍と包囲軍を挟み撃ちすることは戦の鉄則といえた。
しかし、毛利元就は陽動作戦で大打撃を与えてから大内軍を迎え入れようという大胆な作戦を実行しようとしていた。
そして、安芸周辺の国人たちを屈伏させ、尼子の大軍を撤退させたという実績を作ることで、安芸の毛利という地位を確立しようとしていたのだ。
自軍の10倍以上の大軍を真っ向から相手することは殲滅にも繋がる危険性もあったが、毛利元就の頭の中には絶対的な勝機があった。

一方の尼子詮久は、3万の大軍を目の前にしても降伏する気配もなく、城内が混乱しているような様子がないことに不気味さを感じていた。

1540年9月5日
尼子軍は、城下町一帯に火を放って城内の兵や領民を精神的に追い込もうとした。
しかし、この行為は毛利側にとって想定内であったため、城内の混乱はほとんど見られなかった。
この後、毛利元就は尼子方が想定していない陽動作戦を仕掛けることとなる。

陽動作戦

1540年9月12日
毛利元就の家臣・渡辺通、井上元景らの隊が尼子の陣に向かって突撃していった。
そのまま攻め込んでくると思いきや、衝突してすぐに撤退して敗走を装った。
逃げる毛利勢を追いかけてきた尼子勢だが、槍分に潜ませておいた伏兵が側面から急襲したことで多くが討ち取られた。
討ち取られた兵には、本城信濃守などの部将も含まれていた。
また、同日に城の南側にある広修寺周辺でも毛利軍と尼子軍が衝突したが、ここでも尼子軍は撃退されていた。

9月23日
尼子本隊は風越山から青光山へ本陣を移した。
これを好機と見た毛利元就は、手薄となった元本陣の風越山を急襲して火を放った。
これは、尼子詮久に少なからず衝撃を与えるものだった。

9月26日
尼子詮久は、毛利方・小早川興景の城外にある陣を攻撃して周辺から圧力をかけて揺さぶりをかけることとした。
家臣・湯原宗綱に1千5百の兵を与えて急襲したが、小早川興景と大内軍先鋒の杉隆相の猛反撃にあった。
さらに城からの援軍が挟撃に加わったことで湯原勢は壊滅状態となった。

10月11日
新宮党の尼子誠久が1万の兵を率いて吉田郡山城に攻めかかるが、これを事前に察知していた毛利元就。
兵数の不利を打開するため、2千の兵を三手に分けて陽動作戦を決行することとした。

第一陣は、渡辺通、児玉就光らが率いる5百の兵を大通院谷付近に伏兵とし、第二陣は桂元澄らが率いる2百の兵で青山付近に伏兵とした。
第三陣は、毛利元就が1千の兵を率いて尼子軍を伏兵のいるところまで引き付ける役割をした。

毛利元就の第三陣は、尼子軍の先鋒と激戦を繰り広げ、両軍に疲労が出たところで、両翼から毛利の伏兵7百が突撃した。
両翼からの突然の攻撃によって大混乱となった尼子軍は、四方に敗走していった。
その後、毛利軍の激しい追撃は、尼子本陣の外柵を破壊して本陣内の侵入にまで至った。
この追撃で、尼子方の部将・三沢為幸ら約5百の兵が討ち取られるという大打撃を受けることとなった。

当初は、大軍を目の前にして降伏するか、大内軍の救援が来るまでに総攻撃で落城させようと考えていた尼子詮久。
しかし、大軍を目の前にしても城内の動揺は見られず、得体のしれない不気味さを感じていたのが的中することとなった。
少数の兵を駆使して積極的に戦い仕掛けてくる毛利軍によって犠牲者が増え続けたのだ。

対峙してから3ヶ月が経とうとするが、何の成果も得られず尼子軍の士気は落ちるばかりで、密かに離脱する者も相次いで見られ始めた。
長引く籠城戦と大内軍の主力が迫ってきていることもあり、尼子詮久には明らかな焦りが見られた。
だが、無理に総攻めをしても犠牲が増えるばかりで、どうすることも出来ないでいたのだ。




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12月3日
遂に総大将・陶隆房(春賢)が率いる1万の大内軍が、吉田郡山城の東にある山田中山に着陣。
大量の御旗と旗印を立て陣太鼓を打ち鳴らして毛利方を鼓舞したことで、毛利兵の士気は益々高くなるばかりだった。
その後、陶隆房を城内に迎え入れて丁重にもてなした毛利元就は、評定で総攻撃を年明けに仕掛けることで一致した。
この計画は、城外の陣で奮闘する小早川興景、宍戸元源にも使者を通じて伝えられた。

一方の尼子軍は、士気が下がり続けるだけでなく中国山地特有の積雪と寒さが拍車をかけ、募兵の逃亡が増え続けているため軍隊の指揮系統が崩壊し始めていた。

決戦

1541年1月13日 早朝
毛利元就と陶隆房は、申し合わせ通りに尼子軍へ一斉攻撃を開始した。
毛利元就は、城外の小早川興景、宍戸元源らを含めた総勢3千で、宮崎長尾の尼子軍に向けて突撃していった。
この攻撃で毛利元就は、ほぼ全軍を率いていたため、城内には農民や商人などの領民しか残っていなかった。
そこで、守備兵がいるように領民を城内の随所に立たせて、守りが堅固であるよう見せかけた。

毛利軍と衝突した尼子軍の第一陣・高尾隊2千は必死に防戦をしたが、高尾久友の討ち死を知ると敗走していった。
第二陣の黒正隊1千5百も黒正久澄が逃亡したことで、兵が一斉に逃げ出した。
第三陣の吉川興経は、1千の兵で毛利軍と奮戦し反撃に転じていった。

この戦いは日没まで続いたが、当初の目的である第三陣の突破をすることが出来ずに一旦撤退することとした毛利元就。
目的を達成することは叶わなかったが、部将・高尾久友など200名余りの尼子軍の兵を討ち取り、包囲陣の一角を崩壊させるという大きな成果を挙げた。

一方、陶隆房が率いる大内軍は、正面から尼子軍に突撃するのではなく、青光山の南側から江の川を渡河して北上するという迂回路をとって尼子本陣の背後から奇襲攻撃した。
これにより敵陣内は大混乱に陥り、尼子詮久も命の危険に晒された。

そんな中、叔父・尼子久幸は総大将・尼子詮久を逃がすために500の兵を率いると、青光山の中腹で尼子軍と激戦を繰り広げた。
しかし、その奮戦も虚しく飛んできた矢が額に突き刺さり瀕死したと言われる。

尼子軍は、毛利と大内の両軍から挟撃を受けたことで大敗は免れないものとなった。
だが、尼子久幸による決死の戦いによって落ち着きを取り戻した尼子軍は、各隊を集結させると日没まで一進一退の戦いを続けた。

1月13日 夜半
これ以上の戦いは、さらに大きな犠牲が出るとして撤退を開始した尼子軍。
しかし、深い雪に足を取られ思うように撤退が進まないところに毛利軍が追い打ちをかけてきた。
これにより、尼子軍の犠牲者は増加し続ける結果となった。

合戦後

尼子軍の敗戦の影響は大きく、安芸の尼子勢力だった国人は、降伏するか駆逐されるかの選択を迫られた。
また、尼子の治める出雲でも国人の離反が相次いだことで尼子氏による統治が不安定になってきた。

大内義隆は、この戦いに勝利したことで安芸守護に任じられた。
その後、天皇より尼子討伐の論旨を受け取ったことで第一次月山富田城の戦いへと繋がっていくことになる。




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毛利元就の活躍は、大内義隆を通じて幕府にも報告されたが、毛利元就も使者に戦況報告書を持たせて幕府の木沢長政へ持参させた。
これが将軍・足利義晴や管領・細川晴元らに披露されると甚く感激され、毛利元就のもとに最上の賛辞が書かれた書状が送られてきた。

(寄稿)まさざね君

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