田中吉政とは 誰からも愛され関ヶ原で武功を挙げた戦国武将

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田中吉政(たなか-よしまさ)は田中重政の子として1548年に生まれた。幼名は竹、久次、久兵衛。
母は竹(国友与左衛門の姉・妙寿院)。
田中氏の出自は諸説あるが「寛政重修諸家譜」では、橘氏の末裔が田中氏だとしている。
田中筑後守忠政のとき嗣なくして家が途絶えた。
庶流・田中久兵衛政諧が家伝に、先祖近江国高島郡田中村に住し、田中伯耆守嵩弘がときより田中を称号す、其男・田中重政なりと言う。




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なお「藩翰譜」では、田中吉政の父の名を田中宗弘とし

兵部少輔橘長政は伯耆介宗弘が男なり。本国は近江の人、先祖累代、高島郡田中と云ふ所にぞ住してける

とある。

なお「古代氏族系譜集成」の田中氏系図では、遠祖は橘朝臣仲遠とあり、民部大輔親信の子・重信が近江国高島郡田中を領して田中氏を称したとある。
ただし、田中兵部少輔吉政の父は実氏となっている。

いずれにせよ、近江・高島郡の田中村が出自だと考えられる。

ただし、田中吉政の家紋は「一つ目結い」紋(釘抜き紋)であることから、先祖は佐々木氏と関係があった可能性も指摘されている。
なお、織田信長が高島郡に進攻した際に、田中氏は一時帰農したともされている。

また、田中吉政の母の兄弟である国友与左衛門は、浅井長政の家臣である宮部継潤の家臣であったことから、田中吉政は最初、宮部継潤の家臣となっていた。
元々、農民であったとする説では、18歳の時に奥さんと離婚して家を飛び出し、宮部継潤に仕えて木下藤吉郎のように「草履取り」から7石2人扶持に出世したとされている。

農民であったかどうかは別として、小谷城主の浅井家が滅んだ後、宮部継潤は羽柴秀吉の与力となっており、田中吉政も5000石となっていることから、宮部継潤から重用されていたことが伺える。

1580年、羽柴秀吉の中国攻めに加わっていた宮部継潤らが因幡の垣屋光成を攻めた際、田中吉政は落城を決意して自害しようとしていた城主・垣屋光成を見つけ、一戦を交え自害を阻止したとされる。




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垣屋光成を説得すると、田中吉政は「お気に入りの名将を救った」として、40000石にて刈屋城を与えらた。
このように田中吉政に、注目していた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、1582年、本能寺の変のあと、田中吉政を羽柴秀次(豊臣秀次)の宿老に据えている。
ちなみに、宮部継潤は豊臣秀次を、一時養子としていた時期もあり、これは羽柴秀吉が事実上の人質として宮部継潤に預けていたもので、このような縁もあったようだ。

そして、田中吉政は豊臣秀次のもと活躍し、出世も果たしていく。

1585年、豊臣秀次が八幡山城主となり近江八幡43万石を授かると、田中吉政は筆頭家老格となる。
同じく豊臣秀次付き家老となっていた中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末らはそれぞれ居城を与えられていたが、田中吉政は豊臣秀次を直接補佐するため、八幡山城にて政務を取り仕切り、城下町を整備した。

1586年、豊臣秀吉が徳川家康を懐柔するための大政所の三河下向にも、田中吉政がかかわったとされている。




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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、徳川家康が江戸城に転封され、織田信雄も下野・烏山2万石に減封されると、尾張に豊臣秀次が入る。

小田原征伐でも活躍した田中吉政は57400石を与えられて三河・岡崎城主となった。
なお、尾張堤普請の奉行に命じられている。

しかし、1595年、豊臣秀次事件にて、豊臣秀次が高野山にて自害。
この時、豊臣秀吉は豊臣秀次の重臣らも処分しており、木村重茲、前野景定、羽田正親、服部一忠、渡瀬繁詮、明石則実、一柳可遊、粟野秀用、白江成定、熊谷直之ら10名が賜死になるなど、多くの家臣が処分を受けた。

でも、藤堂高虎・田中吉政ら宿老はお咎めなく「秀次によく諌言した」ということで田中吉政は2万8358石3斗の加増を受けた。
また、1596年に更に1万4252石6斗が加増され、田中吉政は三河・岡崎城主として10万石の大名となり、改めて岡崎城の城下町を整備し、町を堀で囲む田中掘を造営するなどしている。
更に、郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を抜けるように変更し「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道を整備した。
このように岡崎では毎日城下の見回りを日課としたようで、道端で弁当も食べたことから気さくな領主として庶民からも慕われたと言う。

豊臣秀吉が死去すると、田中吉政は徳川家康に近づく。
1600年9月、関ヶ原の戦いでは東軍・徳川家康に味方。

関ヶ原の合戦前の岐阜城攻略では大垣城から岐阜城へ向かう西軍を> 黒田長政・藤堂高虎と共に河渡して殲滅。
この際、石田三成の配下・杉江勘兵衛を、田中吉政の家臣・辻重勝が討ち取っている。

また、関ヶ原の本戦では黒田長政とともに石田三成勢と激戦を演じた。




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この時、西軍の山田去暦や、明石全登(田中吉政の娘婿という説もある)の逃走を、黒田長政(明石全登の親族)と共に手助けをしたともされている。
実際に黒田官兵衛(黒田孝高)の没後、黒田長政がキリスト教を禁止したので、明石全登は柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。

関ヶ原で東軍が勝利したあとの佐和山城攻めでは、宮部長煕と共に搦手から進入して落城に貢献。
また、近江出身で地理に明るかったこともあり、伊吹山中へ逃亡していた石田三成を捕縛する大功を挙げたとされているが、実際に捕縛したのは、田中伝左衛門・沢田少右衛門となる。

捕まった石田三成は腹痛で苦しんでいたが、医師が用意した薬は「毒」を恐れたのか拒否したいたと言う。
田中吉政は熟慮した結果、健康に良いという理由付けをして「ニラ粥」を勧めたところ、石田三成は食し、食べたあとは大きなイビキをかいて寝たとある。
この時、石田三成は太閤・秀吉から給わった脇差しを田中吉政に授けたようで、寸延短刀「石田貞宗」(切刃正宗)が東京国立博物館にて展示されている。

戦後、これらの勲功が認められ、田中吉政は筑後32万石を与えられて柳川城に入った。

柳川城でも田中吉政は、近代的な街づくりを行い、柳川の掘割を整備して水運・稲作のための用水路とした。
また、柳川城と久留米城を結ぶ田中街道(県道23号線)なども整備した。
更に柳川城から海を眺めているうちに埋め立てることに注目し、有明海の干拓にも熱心に取り組んだと言う。

1609年2月18日、京都伏見にて死去。享年62。




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跡を継いだ子の田中忠政は男子を残さぬまま死去したために、1620年に田中家は改易された。
これは、田中忠政が大阪の陣に遅参したり、父同様に幕府の禁教令の中でキリスト教を保護したことが一因ともされている。

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