横田尹松とは~高天神城の生き残りで徳川家では使番となった武田家臣

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横田尹松(よこた-ただとし、ただまつ)は、1554年に横田高松の娘婿・横田康景(横田綱松)の長男として生まれた。

父・横田康景は、千葉氏の一族で甲斐に土着した足軽大将・原虎胤の子であり、横田高松の娘と結婚し横田家の婿養子となっていた。
1550年、砥石城攻め(砥石崩れ)らて横田高松が討死すると、父は家督を継いで騎馬30騎・足軽100人の足軽大将となっている。

1572年12月、三方ヶ原の戦いでは父・横田康景と横田尹松が親子で参戦した。
しかし、1575年、長篠の戦いにて父・横田康景(横田綱松)が討死。享年51。

そのため子の横田尹松(横田甚五郎尹松)が横田家を継いでいる。

こうして足軽大将になった横田尹松は、1579年8月から岡部元信と共に遠江・高天神城の守将となった。

高天神城には、前城主・小笠原長忠に幽閉され、引き続き捕虜となっていた徳川家臣・大河内源三郎(大河内政局)が石牢に入っていたが、その「義」に感じ横田尹松は色々と配慮していたとされる。

高天神城・石窟

なお、完全包囲された高天神城の岡部元信らは、援軍を武田勝頼に要請したが、横田尹松だけは密かに「高天神城は捨てるべき」と武田の兵力を温存するよう武田勝頼に書状を出している。

1581年、兵糧も無くなり高天神城から討って出た岡部元信と異なり、横田尹松(横田甚五郎尹松)は報告を行う為に甲斐を目指したようで、11名とされる生き残りのひとりとなった。
高天神城の西峰「馬場平」から奥に「甚五郎抜け道」と言う場所がある。

高天神城・馬場平

武田勝頼は、無事に戻った横田尹松を賞賛し、太刀を与えようとしたが「祖父・原美濃も横田備中も、父・横田十郎兵衛も勝って褒美を貰ったことはあるが、自分は負けて帰ったので、褒美を貰うのは筋がたたない」と言って辞退したとされている。

1582年、甲州征伐で武田家が滅亡したあとは、徳川家康の家臣となり、徳川家の使番・軍監を任された。

関ヶ原の戦いでは徳川家康の本陣に入った使番として真田信尹と共に横田尹松の名が見られる。

江戸幕府のもとでは5000石にて旗本となり、大坂の陣にも横田尹松は真田信尹らと参陣した。

大阪冬の陣では、敵の鉄砲攻撃が激しい味方の陣をわざわざ選んで視察する徳川家康に対して、横田甚右衛門(横田尹松)は「西船場表(一説には信貴野)のほうが鉄砲の攻撃が激しいです。」と進言したと言います。
「ならばそっちを巡視しよう。」と徳川家康は西船場方面へと馬を進めましたが、西船場は大阪城から遠く、鉄砲も全く来ない場所であり、難から徳川家康を救ったとされている。

鬼美濃と言われた原虎胤の孫で歴戦の勇士として知られた横田尹松も歳には勝てず、晩年は病気がちとなった。

家来が「戦場にて討ち死にを遂げ、最期まで功名を挙げられると思っていたのに、このような畳の上でお亡くなりになろうとするとは思いもかけぬことです。」と涙を流しながら話したと言う。
それを聞いた横田尹松は下記のように返した。

「なんとお前は侍の道を知らぬ愚か者なのだ。我は若年より数度の戦いに挑み、多くの城を破り、敵を数多く討ち取った。そのうえで、今静かに死ぬことこそ『討ち死に』と言うべきである。お前たちが言うところの死にざまは『討たれ死に』とでも言うべきだ。」

1635年7月5日、横田尹松は死去した。享年82。

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その後、3男・横田述松が継ぎ、のちに横田由松が将軍の側衆となり従五位下・備中守を叙任。
さらに横田準松のときには9500石となり、旗本としては最高位となっている。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究しております。
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コメント(4件)

  • […]  原虎胤の長男である原彦十郎康景は、やはり甲斐に来て武田信虎の家臣に取り立てられていた足軽大将・横田高松(よこたたかとし)の娘を妻にし、横田高松の婿養子となり横田家に入り、横田康景と改名していた。  1540年の16歳の時が初陣とされ、22歳までに感状を5通所持と実父・原虎胤同様勇猛果敢な武将に育ち、城意庵と共に武田軍中第1級の猛者と言われた。1550年10月01日、村上義清の砥石城攻めでは、しんがりを努めた横田高松と行動を共にしていたと考えられ、4カ所の傷を負いながらも楽岩寺勢の物頭を討取った。その砥石崩れにて横田高松が討死し、騎馬30、足軽100人持ち足軽大将として、横田家の名跡を継いだ。1575年5月21日、長篠の戦いで討死。  子には横田尹松がおり、妻には武田家臣・山県昌景の娘を迎えている。武田家滅亡後は徳川氏に仕え9500石を領した。 […]

     
  • […]  武田勝頼は1579年8月に横田尹松を軍監とし高天神城に送ったあと、1580年7月頃に高天神城は完全に徳川勢に包囲される。 […]

     
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