判官びいき もともと悲運の武将に同情する意味だった
判官びいきと言う言葉をたまに目にしますが、イマイチ正確な意味までわからないと言う場合が多いのではないでしょうか?そんな「判官びいき」に関して解説したいと存じます。そもそも、判官びいきを全部漢字で記載しますと「判官贔屓」と書きます。読み方(ひ...
判官びいきと言う言葉をたまに目にしますが、イマイチ正確な意味までわからないと言う場合が多いのではないでしょうか?そんな「判官びいき」に関して解説したいと存じます。そもそも、判官びいきを全部漢字で記載しますと「判官贔屓」と書きます。読み方(ひ...
1578年、上杉謙信が急死したあと、上杉家の後継者を争ったのが「御館の乱」(おたてのらん)となります。抜群のカリスマで家臣らを統率してきた上杉謙信が、春日山城の厠で倒れて昏睡状態となり、1578年3月13日に急死します。上杉謙信には子がおら...
1582年、織田信長より毛利攻めを命じられた羽柴秀吉は宇喜多直家を含めた3万にて、毛利勢として清水宗治らが籠城する備中・高松城に押し寄せました。そして、毛利の援軍も来るとにらみ合いとなりましたが、黒田官兵衛の秘策を受けて、蛙ヶ鼻から3キロの...
諏訪・信州 城攻め紀行 2-3 荒砥城 からの続きです。素晴らしい復元建物と素晴らしい景観だった「荒砥城」をあとにして、千曲川の南側を上田方面に進み、上田原の戦いが行われた「上田原合戦場跡」を目指しました。付近に「上田古戦場公園」があります...
木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、1572年に日向の真幸院木崎原(宮崎県えびの市)で行われた伊東義祐と島津義弘(38歳)との合戦です。伊東家側は覚頭合戦と言いますが、島津家側は加久藤城の戦いとする場合もあります。薩摩の島津家15代で薩...
高橋元種(たかはし-もとたね)は、1571年に筑前の秋月城主・秋月種実の次男として生まれました。母は田原親宏の娘です。天正6年(1578年)、耳川の戦いのあと、8歳の頃に同盟者である小倉城主・高橋鑑種の養子となります。そして、攻め落とした香...
根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は1587年、豊臣秀吉の九州攻め(九州征伐)の際に、羽柴勢と島津勢が戦った合戦です。徳川家康を臣従させた豊臣秀吉は、1587年1月に九州出陣の触れを出します。戸次川の戦いにて、先に九州に上陸した仙石秀久、...
手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、戦国時代の1577年9月23日に、上杉謙信と柴田勝家が戦った北陸での合戦です。七尾城主の畠山義隆(はたけやま-よしたか)が死去し、まだ5際~6歳である畠山春王丸(はたけやま-はるおうまる)が家督を継ぐ...
浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、戦国時代の慶長5年(1600年)8月9日にあった北陸における「関ヶ原の戦い」です。本物の関ケ原合戦は、1600年9月15日ですので、浅井畷の戦いは約1ヶ月早い「前哨戦」と言う事になりますが、なぜ、石...
山口宗永山口宗永(やまぐち-むねなが)は、山口光広(山口甚介)の子として1545年に生まれました。初めは山口宗長とも名乗り、山口甚兵衛、山口玄蕃頭宗永とも称しますが、豊臣秀吉に仕えます。文禄2年(1593年)、朝鮮攻めの失敗から丹生島城(臼...
金森長近(かなもり-ながちか)は、美濃源氏土岐氏の支流とされる大畑定近(金森定近)の次男として、1524年に生まれました。美濃国土岐郡多治見郷大畑村(岐阜県多治見市大畑町)の出身だとされ、幼名は五郎八可近(ごろうぱち-ありちか)とあります。...
青木一矩青木一矩(あおき-かずのり)は、美濃国大野郡揖斐庄の住人・青木重矩(青木勘兵衛)の子として生まれたとされています。生年は不明です。母は、鍛冶職人とされる関兼貞(関兼員)の三女・大恩院となります。この大恩院は、豊臣秀吉の母である「なか...