厳島の戦いの解説~戦国時代の日本三大奇襲戦の一つ
日本三大奇襲戦の一つである「厳島の戦い」は、兵力で圧倒的に不利だった毛利軍が陶晴賢の大軍に大勝利を治めた戦いで、毛利元就は西国の大大名として飛躍していく事となる。大内氏との決別大寧寺の変で、主君・大内義隆を自害に追い込んだ陶晴賢は、新当主に...
日本三大奇襲戦の一つである「厳島の戦い」は、兵力で圧倒的に不利だった毛利軍が陶晴賢の大軍に大勝利を治めた戦いで、毛利元就は西国の大大名として飛躍していく事となる。大内氏との決別大寧寺の変で、主君・大内義隆を自害に追い込んだ陶晴賢は、新当主に...
大内氏の弱体化「西国随一」と謳われた大内義隆は、第一次月山富田城の戦いで大敗、撤退時に後継者・大内春持が溺死したことで政務の意欲を失っていった。また、大内義隆の命によって武断派ではなく文治派が政務の中心を担ったことで、両派の争いが拡大して大...
愛知県豊明市にある沓掛城(くつかけ-じょう)と言えば、桶狭間合戦前夜に今川義元(いまがわ-よしもと)が宿泊したと言われる城として有名で、現在では城址公園として整備されています。こちらのサイトでも沓掛城はたかだ様によって既に紹介されていますの...
1560年、桶狭間の戦いにて織田信長が今川義元を討取ると、松平元康(徳川家康)は岡崎・大樹寺ほ経て三河・岡崎城に復帰。さっそく三河統一に着手するが、三河・吉良氏の吉良義安と駿府での人質時代に仲がよかったこと、そして吉良義安の旧領を支配して今...
石見銀山の争奪戦国時代の1557年(弘治2年)厳島の戦い、防長経略で大内氏(陶氏)を討伐したことで、周防、長門を併呑した毛利元就。安芸の国人領主から安芸、備後、周防、長門を治める中国地方の有力大名となる。衰えることのない勢力拡大は、尼子氏の...
尼子氏の衰退と大内氏の出雲遠征尼子氏の衰退1540年(天文9年)出雲国主・尼子晴久(詮久)は、反尼子氏という姿勢を明確にした安芸の国人領主・毛利元就を討つべく安芸(吉田郡山城)に侵攻した。1541年(天文10年)尼子軍は長引く攻城戦で苦戦を...
吉田郡山城の戦いとは応仁の乱から半世紀たった中国地方では、山陽の大内氏と山陰の尼子氏が勢力拡大を図って争っていた。安芸国・国人領主の一人にすぎなかった毛利家は、選択を間違えると直ぐに潰されてしまう弱小領主だったため、大内氏と尼子氏に付いたり...
茶屋四郎次郎とは茶屋四郎次郎(ちゃや-しろうじろう)は、京都で呉服などを商いし戦国武将にも大きくかかわったた豪商です。もとは、小笠原長時の家臣・中島明延(中島四郎左衛門明延)が深手を負い武士やめて京都に店を構えたのが始まりとされ、将軍・足利...
摺上原の戦いとは「人取り橋の戦い」で、反伊達連合軍を相手にしながら九死に一生を得ただけでなく、戦いにも自信を持ち始めた伊達政宗。今回は、奥州制覇が現実的なものとなった「摺上原の戦い」について解説する。第20代当主・蘆名義広蘆名義広は、157...
松平忠吉とは松平忠吉(まつだいら-ただよし)は、戦国時代の武将で父:徳川家康の4男として、1580年9月10日に浜松城にて生まれた。母は側室のお愛の方(西郷局)で、徳川秀忠も生んでいる。1581年、東条・松平家の松平家忠が病死すると、2歳で...
酒井重勝とは酒井重勝は1549年生まれで、通称は酒井与九郎または酒井作右衛門尉重勝とされます。1653年、三河一向一揆の際に、酒井重勝は徳川家康と敵対しました。その後、徳川家の家臣に戻ると、1572年、武田信玄との三方ヶ原の戦いにて、徳川家...
小田原城の戦いといえば、関白・豊臣秀吉が率いた2万の兵に包囲され3ヶ月の籠城戦に耐えたが、支城の崩落、重臣による内応、一門による降伏などにより開城したことで、関東一円を支配した北条氏の滅亡へと繋がったというのが有名です。実は、この戦いの20...