関盛信と関一政とは~関ヶ原では井伊直政に属した伊勢亀山城主

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関一政(せき-かずまさ)は、伊勢・亀山城主である関盛信(関万鉄)の次男として1564年に生まれた。
母は日野城主・蒲生定秀の娘であり、関氏は、六角義賢・六角義治に従っていた。

織田信長が伊勢に侵攻すると、父・関盛信(せき-もりのぶ)は最後の方まで抵抗したがさすがに降伏。
1568年、織田家が伊勢を平定すると、神戸城城主・神戸具盛の養子となった織田信孝の与力に父・関盛信(関盛宣)の名が見られる。

しかし信長の怒りを買い、1573年の春、父・関盛信は織田信長によって追放され、神戸具盛と共にに蒲生賢秀の近江・日野城に幽閉された。
ただし、行動は比較的自由だったようで、越前から逃れて甲賀郡に入ろうとした樋口直房を、1574年8月に討ち取っている。
その首は、妻の首と共に長島一向一揆の鎮圧をしていた織田信長の元に届けられ、父・関盛信は功績を褒めらたが、蟄居を許されることは無かった。

1582年、織田信孝が四国攻めの準備をすると、ようやく父・関盛信は許されて伊勢・亀山城に復帰し、子の関一政と共に織田信長に仕えた。
しかし、すぐに本能寺の変となり、その後は、豊臣秀吉に属している。

1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、伊勢亀山城を滝川一益に一度落とされるも奪還し、蒲生氏郷の与力を命じられた。
関一政の正室は、蒲生賢秀の娘(蒲生氏郷の姉か妹)でもある。

そして、1584年、徳川家康との小牧・長久手の戦いにも親子で参戦。

その後、父・関盛信は隠居して万鉄と号し、家督を関一政に譲った。

そして、関一政は蒲生氏郷の与力として九州攻めや小田原攻めにも参陣し、特に韮山城を攻撃している。

1591年、九戸政実の討伐で功績があり、蒲生氏郷が会津に入ると、関一政は白河城5万石、弟・関盛吉(せき-もりよし)は猪苗代城の城代として7000石になっている。
なお、父・関盛信は1593年6月28日に、白河にて死去した。

1596年、関一政は、従五位下長門守に叙任となり豊臣姓を下賜された。

1598年、上杉景勝が会津に移ると、蒲生家から独立して信濃・飯山城3万石に移封となり、また豊臣家直轄領の川中島四郡の代官にも任されている。
この時、弟・関盛吉(関勝蔵盛吉)も兄・関一政の家臣になった。




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1600年、森忠政が川中島に入ったため、関一政(関長門守一政)は、美濃・多良3万石で移封となり、多良城(多羅城)に入るが、まもなく関ヶ原の戦いとなる。

関ヶ原合戦では、当初は石田三成に協力して、尾張・犬山城の守備の一員となっていた。
しかし、徳川家康に寝返ると、関ヶ原本戦にて井伊直政に属して武功を挙げたため、所領安堵となった。
また、1604年には、故郷の伊勢・亀山城への復帰を許され、50000石にもなった。

しかし、1611年、伯耆・米子の中村一忠が無嗣断絶で改易となった後として、関一政は伯耆・黒坂藩5万石で移封され、鏡山城を築城している。

1614年、大坂冬の陣で関一政は京橋口攻めに参加し、1615年、大坂夏の陣でも京橋口を攻めて、首級52を挙げるなどの活躍をした。
ただし、1618年、家中のもめごとが発生し改易となる。

弟・関盛吉は土井利勝の食客となったが、その長男・関氏盛が関一政の養子となり、近江・蒲生(中山陣屋)にて5000石の旗本(幕府寄合衆)となり、家名を残している。

関一政は1625年10月20日に死去した。

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