大澤正秀(おおさわ-まさひで)は、大沢次郎左衛門(おおさわ-じろうざえもん)、大沢治郎左衛門、大沢正秀、大沢基康、大沢正重、大沢正継、大沢正次(大沢治郎左衛門正次)、大沢為康、大沢六郎左衛門など色々な名前があります。
いずれかは、父や子の名前である可能性も捨てきれません。
大澤正秀(大沢次郎左衛門)は、始め斎藤道三の家臣で美濃・宇留摩城主(鵜沼城主)を務め、鵜沼の虎と呼ばれるほどの槍術の達人だったようです。
知行は5840貫文と言いますので、それなりにもらっています。
正室は斎藤道三の娘とされていますが、確認が難しいです。
1564年、織田信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)に鵜沼城と伊木山城の攻略を命じます。
しかし、鵜沼城主の大沢治郎左衛門は強く抵抗しました。
太閤記によると1566年12月、木下藤吉郎の調略により大澤正秀(大沢次郎左衛門)は降伏しました。
そして、1567年1月5日、木下藤吉郎と共に大澤正秀(大沢次郎左衛門)は清洲城へ赴きましたが、織田信長は降伏した大澤正秀(大沢次郎左衛門)が心変わりするのを恐れて殺害を企てますが、木下藤吉郎の計らいで刀を渡され大澤正秀(大沢次郎左衛門)は逃れたとあります。
ただし、信長公記では鵜沼城(うぬまじょう)の攻略は1564年8月となっています。
なお、織田家に降った大澤正秀(大沢次郎左衛門)ですが、織田の家臣としての史料はありません。
しかし、大澤正秀(大沢正重)の異母弟・大沢為之(大沢主水為之)は織田信長の間者として仕えたともあります。
織田信長の死後になる1582年8月24日、北近江の支配者となった柴田勝豊から、大澤正秀(大沢次郎左衛門)が阿閉貞大の旧領と浅井郡を与えられています。
その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)、そして豊臣秀次に仕え、2600石を知行しました。
しかし、豊臣秀次の自害後は流浪しますが、関が原の戦いでは徳川勢に親子5人で参戦したことから、大澤正秀・大沢正重の父子は小田原城主・大久保忠世に庇護されました。
このようにして、大澤正秀は小田原の万松院に寓居すると76歳で死去したとされます。
新編相模風土記稿によると、大澤正秀(大沢次郎左衛門)が死去したのは1622年1月8日とあります。
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なお、小田原城の北条氏政に仕えた、大沢綱安(大沢次郎左衛門綱安)と言う鉄砲大将の名も見えます。
この、大沢綱安(大沢次郎左衛門綱安)はやはり鵜沼城主から追われたとありますので、大澤正秀の一族と言う可能性があります。
大沢綱安(大沢次郎左衛門綱安)は1579年4月4日に病死しますが、孫の大沢勘兵衛なる武将が、1590年6月23日の八王子城の戦いにて討死・28歳とあります。
更に大沢為泰(大沢次郎左衛門為泰)なる武将が、1556年、斎藤義龍の明智城襲撃に加わった斎藤勢の見られますが、大澤正秀(大沢次郎左衛門)の父である可能性があります。
このように大澤家では代々「次郎左衛門」を称しているようで、余計にわかりにくいです。
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大澤正秀の墓
と言う事で、小田原・万松寺にある大澤正秀の墓をお参りして参りました。
大澤正秀の墓は、このページトップの写真です。
万松寺には松平信康の供養塔、福島勝広(福島伊賀守)の墓もあります。
万松寺への行き方などに関しては、下記の松平信康のページにてご紹介させて頂いております。
また、大澤正秀(大沢次郎左衛門)に関しては調べても不明瞭な点が多かったため、情報提供もお待ち致しております。