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田中吉政の陣跡は、他の陣跡史跡と異なり、道路の交差点にあり、田中吉政陣跡の小さな敷地が、道路で囲まれているような感じになっています。
田中吉政と言う武将は、豊臣秀次の筆頭家老でしたが、豊臣秀次の切腹事件では、お咎めなく、10万石で三河・岡崎城主となっていました。
豊臣秀吉の死後は、徳川家康に近づきました。
なお、大阪城の屋敷が石田三成とは近かったようで、親交はあったほうだったようです。
関ヶ原の戦いでは、家臣の辻重勝が、三勘兵衛のひとりである石田勢の勇猛な武将・杉江勘兵衛を討ち取っています。
ただし、最前線で戦っていた明石全登は、田中吉政の娘婿という説もあり、明石全登の親族である黒田長政と共に逃走を手助けしたとも言われています。
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そのあと佐和山城攻めでも田中吉政は功績をあげていますが、佐和山城を守備していた石田三成の家臣・山田去暦を妻子共々、陥落間際に救っています。
この山田去暦と言う武将は、能筆家だったようで、徳川家康が幼い頃に「手習いの師匠」だったとの事です。
そのため下記のような矢文を佐和山城に届けたと言います。
明日には落城すると思うが山田去暦殿は、かつて家康公の手習い師匠であったので逃げるなら見逃そう。
山田去暦は夜陰に乗じて、城壁を椅子を使って降り、盥(たらい)を逆さまにして水堀を渡って、妻と子2人と共に佐和山城を脱出したと言います。
ちなみに、城から出た途中、妻が産気づき女児を出産したともあります。
佐和山城が陥落したあと、田中吉政は、伊吹山中に逃走していた石田三成を捕えると言う大功もあげました。
こうして、田中吉政は筑後・柳川城32万石にもなった訳です。
なお、田中吉政は、石田三成とは元々仲も良かったので、捕らえた際には厚遇しました。
石田三成も「自分を捕らえたのが田中吉政でよかった」と言い残したとされています。
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田中吉政の陣跡
もともとは、関ケ原字甲斐墓に田中吉政3000の陣跡史跡があったそうです。
そのため、甲斐墓陣所跡とも言います。
だいたい、関ヶ原製作所がある東あたりでしょうか?
昭和62年に現在地に移転となりました。
関原合戦図志では・・
柴ノ内、福榎、貝墓ハ加藤嘉明、筒井定次、田中吉政陣所 此三将ノ陣所ハ一番備ニシテ中山道ノ北ニアリシコト明カナレドモ其詳細ナル位置ハ古記ニ記載セシモノナク又古図ニモ其地ヲ指定シタルモノナシ
とおり、合戦開始時に田中吉政の陣がどこにあったのか、そもそも正確にはわかっていないようですが、一番備えとして宇喜多秀家や石田三成と一戦交えています。
加藤嘉明、筒井定次共々、まぁ概ね、現在の石碑がある場所の南付近や北付近と言う事にはなるのかなと推測致します。
なお「甲斐墓」と言う地名、戦国好きであれば、気になりますよね?
と言う事で、調べてみました。
関ヶ原の「甲斐墓」
調べた結果ですが、現時点では地名の由来は良く分かりません。
「関原合戦図志」には「貝墓」と言う名称で出てきますが、明治25年に発刊された書籍ですので、昔から使われた漢字が「貝墓」なのか「甲斐墓」なのか?、イマイチよく分かりません。
関ヶ原の民族史料などを確認すれば、わかってきそうですが、そこまで暇と予算もないので、長期の宿題とさせて下さい。
ただし、感覚的には「貝墓」だった地名が、大きな合戦となったので、戦国時代にちなんで「甲斐墓」と変わったのかな?と言う気がいたします。
なお、関ヶ原の戦いの際に「甲斐」の国主だった浅野幸長も、東軍として参戦しています。
その為、浅野家に関連する墓所が作られたのかな?とも推測してみました。
しかし、浅野幸長が陣を構えたのは、関ヶ原から離れた、垂井一里塚付近で、南宮山の毛利秀元、長束正家らを牽制しています。
そして、同じく、南宮山の西軍に備えていた、山内一豊・有馬豊氏・蜂須賀至鎮に関しては、しばらくして、徳川家康の命が届き、前進して関ヶ原の本戦に加わったようです。
しかし、最後方の池田輝政と浅野幸長は、ずっと南宮山に備えており、長束正家・長宗我部盛親が後退すると、追撃していたようなので、関ヶ原の激戦地まで、戦闘する為には進軍しなかったようです。
もし、関ヶ原まで前進して合戦に参加したのであれば、浅野家中の重要人物が命を落として墓を築いたとも推測でき、このよう甲斐からやってきた浅野家が墓を築いたため、戦後になって「甲斐墓」と呼ばれるようになったとも考えられますが、なんとも不明です。
引き続き、調べてみたいとは思いますが、皆様で何かご存知の方がおられましたら、ページ下部のコメント欄からでも情報お寄せ願えますと幸いです。
※コメント投稿の反応はちょっと鈍いと思いますので、ご了承願います。
田中吉政陣跡の場所
さて、田中吉政陣跡がある場所は「関ケ原町歴史民俗資料館」から約50mと訪れるのにも便利で、隣の広場には「徳川家康最後陣跡」(陣場野)がありますので、セットで見学可能です。
下記の地図ポイント地点にあります。
写真撮影する場合には、概ね旧北国街道の「道路上」からとなってしまいますので、往来する車の迷惑にならないよう、また安全の為のご配慮をお願い申し上げたく存じます。
駐車場は、資料館に駐車すると良いです。
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