その他合戦場

樫井の戦い(大坂夏の陣) お菊の悲しい運命となった紀州一揆

樫井の戦い
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樫井の戦い(かしいのたたかい)は、1615年、大坂夏の陣の際に発生した合戦のひとつで、豊臣勢の塙団右衛門(塙直之)や淡輪重政が討死した戦いでした。
樫井と言う場所は、大阪府泉佐野市にある紀州街道の古い集落になっているところです。

すでに堀を埋められてしまった大坂城は裸同然であったため、迫ってくる徳川勢に対しては、撃って迎撃するしかありませんでした。
そのため、豊臣勢は、隣国である和歌山城浅野長晟を攻略しておこうと、大野治房を大将にして、塙団右衛門(塙直之)、岡部則綱、淡輪重政ら3000が南へと派遣しました。
このとき、豊臣勢は旧雑賀衆・旧根来衆らに紀州一国を与えると揺動しました。
こうして、4月27日、紀州一揆(日高一揆)が発生し、湊惣左衛門、山口喜内、薗部兵衛、和佐半左衛門、土橋兵治ら1500が蜂起しました。
そのため、警戒した浅野長晟は和歌山城から出撃するのが難しかったのですが、徳川家康からの要請もあり出陣した模様です。
5000を率いて4月28日に北上し、和泉国佐野に着陣しました。
偵察隊が、豊臣勢の先鋒を発見すると、その数2万と誤認報告したため、亀田高綱を殿(しんがり)として、安松(大阪府泉佐野市南中安松)に残して、浅野勢の本隊は少し引き返し、少数でも迎撃に有利な「樫井」に陣を敷きました。
樫井の集落の南には、樫井川が流れており、その川の南側にて、北からくる豊臣勢を迎え撃とうとしたようです。

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そして、4月29日の夜が明けると、豊臣軍の先鋒である塙直之、岡部則綱が、殿の亀田高綱と接触して戦闘が開始されたと言う事になります。
浅野勢の亀田高綱は、敵を引きつけながら少しずつ退却して、見事に豊臣勢を樫井まで誘引しました。
そして、浅野勢の浅野知近、上田重安らが前進すると豊臣勢と激しい戦いになったといいます。
しかし、塙と岡部が先鋒を争う形で突出したため、豊臣勢の後続は追いつかず、やがて岡部則綱は敗走します。
塙団右衛門は、浅野勢の田子助左衛門(多胡助左衛門)、亀田大隅、八木新左衛門、横井平左衛門らと交戦し、槍が折れるまで戦って討死。
淡輪重政は、その戦死を見て敵陣に突っ込み、永田治兵衛に首を取られました。
ちなみに、淡輪重政の兄・淡輪重利が浅野家の家中にしましたので、兄弟で敵味方同士であったと言う事になります。

樫井の戦い

大野治房を対象にした豊臣の軍勢は、実は3万~4万だったとされています。
しかし、塙団右衛門らが武功を焦ったのか、軍勢が一丸となって動けておらず、小牧長久手の戦いのように豊臣勢は、兵力が細長く伸びて分散しているような状態になっていたようです。
そして、大野治房は、小出吉英が守る堅固な岸和田城を簡単に落とせなかったため、本隊は岸和田城に釘付けだった模様です。
また、一揆勢と連携して攻撃をしかけようと考えていました。
大野治房は願泉寺(大阪府貝塚市中)で食事をとっていたところ、先鋒で戦闘が発生したとの知らせを聞き、樫井へ急ぎましたが、既に浅野勢は撤退したあとだったとのことです。
このように、まったく統制が取れておらず、作戦継続は困難と考え、豊臣勢は大坂城に引き返しました。
なお、豊臣勢から一揆勢を指揮するために送られた武将は、浅野勢に捕縛されていたと言います。

一揆勢も、留守の和歌山城を攻撃しましたが、守備していた熊谷治部、寺沢半兵衛らの計略によって鎮圧されたともされます。
ただし、和歌山城に戻った浅野長晟が、寺西清左衛門、原勘兵衛ら2000の活躍にて鎮圧したのが正しいようです。

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一揆勢の首謀者、湊惣左衛門(みなと-そうざえもん)は、もと雑賀衆で雑賀庄湊の城主であったとも、湊氏と言う事で紀伊・亀山城の湯川氏の家老を務めていたともされます。
また、湊の鈴木惣左衛門と言う事で、雑賀城の鈴木氏の一族であったと言う説もあります。
実は、この湊惣左衛門は、1601年に和歌山城主・浅野幸長に仕官していました。
しかし、150石だったのが不満だったのか、大野治長や新宮行朝らの扇動に呼応し、山口喜内と共に一揆を起こしたと言う形になります。
湊惣左衛門は、鹿ヶ瀬や蕪坂峠などでも敗れて逃亡すると、堀内氏の領地だった新宮城の城下にて余生を過ごしたとされています。

山口喜内(やまぐち-きない)は別名を山口安弘、山口安弘喜内とも言い、坂上田村麻呂の末柄を称しており、紀伊国名草郡山口村6万石の代官を務めていました。
子の山口兵内(やまぐち-へいない、山口朝安、山口朝安兵内)は、なんと、関白であった豊臣秀次の娘・お菊(阿菊)を正室に迎えています。
1595年に豊臣秀次の妻子は処刑されましたが、お菊はそのとき生後1ヶ月で女子だったため、命は助けられたようです。
ちなみに、お菊の母は、淡輪隆重の娘である小督局でしたが、母も処刑され、淡輪氏も連座して、淡輪重政は小西行長の家臣となっていました。
しかし、関ヶ原の戦いのあとは浪人していたと言う事で、淡輪良重の甥の後藤興義が養育していたようです。
恐らくは、淡輪重政の縁者であり豊臣家に深い関わりがあると言う事で阿菊は、政略結婚として、山口兵内に嫁入りしたのでしょう。
結婚から僅か5日後、山口兵内は、大坂城に入り、お菊は山口の屋敷に留まりました。
やがて、山口の里にも、浅野勢が現れると、お菊は、山口喜内の命を受けたのか援軍を要請するため、農夫の姿にと男装し、密書を持って敵の包囲から脱出しました。
風吹峠から尾根伝いに北へ向かい、信達庄の納経山の松の大木の下で、大切にしていた長い髪を切り、大坂城に入って使命を果たしています。
そして、夫との再会もそこそこに山口の里に帰ろうとしましたが、その途中、樫井川で徳川勢に捕まり、返書を奪われました。
ひのとき、すでに山口喜内は一族を逃がして切腹しており、お菊の夫・山口朝安も5月7日に大坂城にて討死しました。
養父・後藤興義も、伯父・淡輪重政と共に樫井の戦いで討死していたようです。
阿菊は波有手の実家に身を隠しましたが、やがて浅野勢に捕えられ尋問を受けました。
お菊は自ら死を願ったようで、1615年6月6日、紀川南穂村の河原で処刑されたと言います。享年20歳。

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一揆勢で処刑された者は、日高郡5村252名、有田郡4村48名、名草郡6村114名、那賀郡・伊都郡1村29名の合計5郡17村443名に及んだとの記録が残っています。

敗走して大坂城に戻った岡部則綱は、塙直之・淡輪重政を見殺しにしたのではと咎められ、自刃しようとしましたが、毛利勝永に制止されたと言います。

5月7日には、天王寺口の戦いで真田信繁(真田幸村)も討死し、大坂城が炎上して、豊臣秀頼淀殿が自刃します。
豊臣勢が滅亡したのは、樫井の戦いから僅か9日後のことでした。

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