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萱津の戦い(かやづのたたかい)は、戦国時代の1552年に尾張国萱津にて、織田信長・織田信光の軍勢と、清洲織田勢の坂井大膳が戦った合戦です。
織田信秀(おだ-のぶひで)の死後、弾正忠家の当主を継いだ織田信長(おだ-のぶなが)ですが、駿河より侵攻を強める今川義元の調略によって鳴海城主の山口教継(やまぐち-のりつぐ)らが寝返ったため討伐のための軍を発します。これが、4ヶ月前に起こった「赤塚の戦い」です。
赤塚の戦いは、いわば仲間内での戦いだったためお互いの被害も少なく、戦後は捕虜や馬なども交換しているため引き分けといった結果になりました。
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この赤塚の戦いの少し前、まだ織田信秀が生存していた頃は今川氏だけでなく美濃の斎藤道三とも争いを繰り広げていたため、織田信秀は朝廷に働きかけ、後奈良天皇の綸旨によって織田家と今川家は和平を結びましたが、織田信長はこの和平交渉を破って出陣したため、周囲は「うつけ者」と呼び蔑んだと言われています。
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周囲の状況と経緯
当時の織田信長の勢力範囲は那古野城を本拠として津島から熱田湊までの海岸線沿いを中心とし、東側は弟の織田信勝(おだ-のぶかつ)の末森(すえもり)城、さらにその東側は柴田勝家の下社(しもやしろ)城を拠点として、西三河の高橋荘(現在の豊田市)近くまで勢力を伸ばしていましたが、東海道沿いは前述した鳴海城主の山口教継の寝返りによって、有力豪族である佐久間氏が支配する御器所(ごきそ)城近辺まで今川氏の勢力が伸びてきており、知多の有力豪族である水野氏は今川方に近い状態でした。
引き分けに終わった赤塚の戦いから約4か月後の8月15日、本来主君筋にあたる守護代の清州織田家は弾正中家(織田信長)の弱体化を見て取り、実権を握っている家宰の坂井大膳(さかい-だいぜん)が中心となり、同じく家老の坂井甚介(さかい-じんすけ)と織田三位(おだ-さんみ)、河尻与一(かわじり-よいち)と語らい織田信長方の松葉城と深田城を攻め落とします。
この時の清州織田家は守護代として織田信友が家督を得ていましたが実権は無く、この戦いで主将各として出陣した坂井大膳が「小守護代」とも呼ばれているように清州織田家の実権を握っており、織田信秀が生存していた天文16年(1547年)には美濃の斎藤道三と戦っている隙を突いて織田信秀の本拠地である古渡城を攻撃。攻め落とす事はできなかったものの、織田信秀に和睦を結ばせている強者でした。
『信長公記』によると松葉城は現在の大治町にあり、城主は織田信氏(おだ-のぶうじ)と記されていますが、信氏の母は信長の妹にあたるため、年齢的に城主としての地位に就くには難しく、別の記録にある織田伊賀守と言う人物が城主だったと思われます。
深田城は現在のあま市にあり、城主は織田信秀の末弟の織田信次(おだ-のぶつぐ)でした。
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織田信次の生年は不詳ですが、織田信長とは15歳程度離れていたと考えられており、家督を継いだ織田信長は比較的年齢の近いこの叔父を信頼していたようで、後に近江の浅井長政(あさい-ながまさ)を滅ぼした際には、お市の方と茶々、初、江の三姉妹を預けています。
しかし、清州織田家軍の奇襲により松葉城と深田城は包囲攻撃され落城。
織田信次と織田伊賀守は捕虜となってしまいました。
萱津の戦い
深田城と松葉城は織田信長にとって交易の二大拠点である津島湊と熱田湊、本拠の那古野城を繋ぐ重要な位置(注1)にあたり、この2城が敵方に渡る事は交易から入る多くの金銀をも失う事に繋がります。
※注1
埋立が進んでいる現在とは異なり、当時の海岸線はかなり陸地側まで入り込んでおり、現代では内陸地となっている津島は名前の通り「湊(津)」であり「島」でした。
現在の国道1号線の北側には、当時海岸線だった事を思わせる「中島」や「榎津」「蟹江」など島や湊にちなんだ地名が散見され、海であった南側を見てみると、江戸時代以降の埋め立て地に多く見受けられる「●●新田」と言う地名がいくつも存在しています。
那古野城で2城が落城となり織田信次と織田伊賀守が捕虜となった報を受けた織田信長は、即座に那古野城を出陣して親族の中でも織田信長を支援している織田信光(おだ-のぶみつ)が在城する稲葉地城で織田信光の軍勢と合流します。
一般的には、織田信光は守山城主として記されている事が多いですが、信長公記に書かれている日時が正しいとすると、8月15日に2城が奪われた報告を受けて守山城の織田信光に連絡、守山勢がすぐに出陣したとしても、翌日の朝8時に奪還するための戦いを開始するためには、守山勢がかなりの速度で行軍する必要が出てきます。
手近な者だけを連れた少人数での出陣ならば可能かもしれませんが、後に四手(三手と言う説も有)に別れて行軍させている事を考えると、織田信光の軍勢も一定の規模の人数を連れての出陣であったと見るべきでしょう。
これに対し、稲葉地城に織田信光が在城していたと考えると、織田信長が2城落城の報を受けるのと同じ頃に織田信光も同様の報告を受けている可能性が高く、手勢を集めると同時に那古野城の織田信長の軍勢を城内で待ち受け、夜半から明け方まで軍勢を休ませた上で庄内川を渡河して清州勢に攻めかかる事も可能となります。
実際の所は、織田信光が守山城と稲葉地城のどちらに在城していたのかは不明ですが、この場では織田信光が稲葉地城に在城していたとして、ここからの話を進めていきたいと思います。
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織田信長・織田信光の連合軍は明け方前のまだ薄暗い中、稲葉地城の眼前を流れる庄内川を渡り(注2)、海津口・松葉口・清洲口・三本木口の四手に別れ、清州城からの援軍を抑える軍勢と深田城、松葉城の奪還に向かう軍勢として進軍を開始します。
信長公記によれば、城を奪われた翌日の8月16日辰の刻(午前8時頃)に戦いは始まり、正午頃には織田信長の小姓であった赤瀬清六が清州織田家の有力武将の一人である坂井甚介に討ち取られるものの、その場に駆け付けた柴田勝家(しばた-かついえ)と中条家忠(ちゅうじょう-いえただ)が協力して坂井甚介の首を取ったため、清州勢の士気は衰え、織田信長の軍勢は松葉城と深田城の奪還にも成功しました。
坂井甚介を始め、多くの将兵を失った清州織田家は兵をまとめて本拠地の清州城へと撤退しますが、織田信長・信光の軍勢は勢いに乗じて清須城下の田畑を刈り取って多くの兵糧を得てから(注3)撤兵したと伝わっています。
※注2
稲葉地城の脇に立つ凌雲寺は織田信長が幼少の頃に手習いに通った寺であり、境内には織田信長が手習いの際の墨を木の枝に掛けて乾かした伝わる松の木があり、その脇には『織田信長公掛草紙松』と記された碑が建てられています。
手習いが終わった後は、近くの庄内川河畔で小姓達と相撲を取って遊んだ等の記録も残されており、織田信長自身が軍勢を渡河させるべき浅瀬の位置などを熟知していたと考えられるため、薄暗い中での渡河も無事に行えたと思われます。
また、織田信長に小姓として仕えていた前田利家(まえだ-としいえ)もこの萱津の戦いで初陣を飾っていますが、織田信長と同様に浅瀬の位置などを知っていたため、渡河の案内役も兼ねての出陣だったと考えられます。
※注3
8月16日は旧暦であり、新暦に直すと9月3日になるため稲が収穫できる時期を迎えていた頃でした。
戦後の状況と現在
萱津の戦いは奪われた深田城・松葉城の2城を奪還するための出陣だったため、一気に清州城を攻略する事はかないませんでしたが、この戦いにより清州方は多くの兵糧を失っており、その後は大がかりな戦を織田信長に対してしかける力を失ったと言われます。
天文23年(1554年)織田信秀とは以前より親交を深めており、死後も家督を継いだ織田信長率いる弾正忠家に対して手厚い支援を行っていた尾張守護の斯波義統(しば-よしむね)は、守護代の織田信友と坂井大膳が織田信長を謀殺する計略を聞きつけ、この計画を織田信長に密告します。
これに対し、織田信友・坂井大膳ら率いる清州織田家は、斯波義統の嫡子である斯波義銀(しば-よしかね)が配下の兵と川狩りに出ている隙を突いて清州城へと攻め寄せて、守護の斯波義統を殺害して実質的に清州城の支配者となりました。
父の斯波義統を討ち取られた斯波義銀はそのまま織田信長の元へと身を寄せて尾張守護を名乗る事となり、翌年には織田信長と共に清州城を奪い返す事に成功しています。
赤塚の戦いでは「大うつけ」と呼ばれ、尾張国内でも敵対勢力に回る者が増えていた織田信長でしたが、萱津の戦いで実力者の坂井大膳の軍勢を打ち破った事によって周囲にその力を見せつける事に成功した上で、守護の斯波義銀を支配下に収めており、その後は尾張統一へと突き進んで行く事になります。
現在、萱津の戦いがあった地は住宅地となっていますが、その一角に石碑が建てられており、その碑には
いにしへの 萱津が原に名をとどむ もののふどもの 夢のまた夢
と刻まれ、萱津の戦いで散って行った将兵達の夢を現在もに伝え続けています。
萱津の戦い巡礼
稲葉地城以外は近隣に駐車場がありません。
萱津古戦場と松葉城近辺は道幅が狭く駐車禁止地帯のため、車で訪問する際は離れた位置に駐車する方法を見つける必要があります。
・萱津古戦場跡
愛知県あま市上萱津八剱50
住宅地の中に碑が建てられているだけです。
公共交通機関で訪問する場合、名鉄甚目寺(じもくじ)駅から南西に徒歩20分。
甚目寺駅のすぐ近くには尾張四観音の一つである甚目寺観音があり、南大門は源頼朝の寄進。
その他、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑や初代尾張藩主徳川義直なども寄進を行っています。
・稲葉地城
名古屋市中村区城屋敷町4-10-1
織田信光が築いた城で築城年は不明です。
城屋敷神明社に城址碑が建てられている他、南側に隣接する凌雲寺は織田信光の墓や、信長公掛草紙松が残されています。
名古屋市営地下鉄の中村公園駅から、西へ徒歩約20分。
駅から北へ進むと、豊臣秀吉と加藤清正の出生地である中村公園があります。
凌雲寺には駐車場もありますので、拝観後にお寺の方にお願いして車を停めさせて頂き、稲葉地城へ回る事も可能です。
・深田城
あま市七宝町桂城之堀
遺構などは残されていませんが、字名の城之堀が城跡だった事を思わせます。
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・松葉城
海部郡大治町西條南屋敷
こちらも遺構は残されていませんが、一帯には「屋敷」が付く字名が多数存在しており、八劔社と西に隣接する法城寺一帯が城の中心地だったと言われています。
深田城、松葉城ともに鉄道駅からはかなりの距離がありますので、あま市巡回バスを利用する事になります。
深田城は「あま市役所七宝庁舎」バス停のすぐ東側一帯、松葉城は「秋竹宮西」のバス停から東に700m程の所になります。
この他、「沖之島中屋敷」バス停からすぐの地には前田利家の妻である、お松の方の出生地の瑞円寺があります。
・瑞円寺
あま市七宝町沖之島北屋敷7
(寄稿)だい
・織田信長「14歳での初陣」吉良大浜の戦い
・赤塚の戦い 織田信長が「うつけ者」と言われた由来
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