長島一向一揆の解説 信長を本気で怒らせた宗教との戦い

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天下布武の旗印を掲げ勢力拡大を続ける織田信長
尾張・美濃を支配下に治め、足利義昭を擁して京上洛も果たします。
しかし、天下布武という先を見ている織田信長は、休む間もなく摂津・越前・近江、そして伊勢へと手を広げていくのでした。

1570年(元亀元年)

摂津国の石山本願寺の宗主・顕如が中立の立場から態度を一転します。
織田信長と野田城・福島城(摂津国)で戦をしていた三好三人衆に賛同して挙兵したのです。




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これにより、三好三人衆を攻め落とす手前の状態から一気に形勢逆転となった織田信長は、撤退を余儀なくされたのでした。

顕如による織田信長打倒の号令は、伊勢を統括していた願証寺にも伝わり、瞬く間に伊勢一帯の一向一揆に発展していったのです。

浄土真宗本願寺派の門徒は農民が中心でしたが、織田信長を憎んでいた土豪も加わったことで大きな一揆へと発展していきます。
一向一揆衆たちは、織田領内の城を取り囲み一気に襲い掛かっていったのです。

桑名城滝川一益古木江城の織田信興(信長の弟)も必死に応戦しますが、数で圧倒する一向一揆衆によって落城寸前の状態でした。

この報せを聞いた織田信長も援軍を直ぐにでも出したかったが、比叡山に籠る浅井・朝倉軍と本願寺の顕如を中心とした一向宗と対立していたため、身動きの取れない状態にあったのです。

古木江城の落城により、織田信興は自害してしまいます。
また、桑名城の滝川一益も城を奪われると命からがら敗走したのです。

織田信長と弟・信興との信頼関係は深く、この死を知った信長は、怒りと悲しみ如何ほどのものだったことでしょう。
その後、正親天皇の勅命によって浅井・朝倉と和睦した織田信長は、翌年には伊勢長島の一向一揆鎮圧に取りかかるのです。




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第一次長島侵攻

1571年(元亀2年)5月
織田信長は、5万の大軍を率いて長島一向一揆鎮圧(第一次長島侵攻)を開始します。

伊勢に到着した織田軍は、本隊の織田信長が津島、佐久間信盛が中筋口、柴田勝家が太田口の三方に別れて攻め入ります。

対する一向一揆衆は、十数か所の砦に別れて必死に応戦します。
織田軍は何度も砦を攻めますが、守りが固く攻めあぐねていました。

織田信長は、砦攻めが長期戦の用を呈してきたこともあり、一旦退却を決意します。
退却が決まると、砦周辺の村々を焼き払うことを命じて5月16日の夜に織田軍は退却を開始したのです。

織田信長と佐久間信盛の隊が退却までは何の問題もありませんでしたが、殿軍の柴田勝家が道の狭い場所を通っている時に一向一揆衆の待ち伏せにあったのです。

待ち伏せをしていた一向一揆衆は、多数の弓兵と鉄砲兵を配備していて、この攻撃によって柴田勝家が負傷します。
そして、代わりに殿を務めた氏家卜全や多数の家臣も討死してしまったのです。

第二次長島侵攻

結果として、一向一揆衆に苦汁を飲まされることになった織田信長。
1573年(天正元年)9月
同年の8月に浅井長政朝倉義景を倒した織田信長は、休む間もなく2度目の長島一向一揆鎮圧(第二次長島侵攻)を開始します。

9月25日に織田信長を中心とした大軍が伊勢の津島に着陣すると、翌日には西別所城を一気に攻めたて、あっという間に陥落してまったのです。

また、10月に滝川一益らによって坂井城を攻略後、続けざまに近藤城も攻め落としたことで、赤堀城、伊坂城なども次々と降伏していったのです。

しかし、長島一向一揆の本拠地である長島城や願証寺は中州にあったため、ここに渡るための大量の船を調達する必要がありました。
この船の調達が思うように進まなかった織田軍は、10月25日に滝川一益を伊勢に残して退却となったのです。




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退却途中に織田軍は、またしても一向一揆衆の待ち伏せにあったのです。
この時の殿軍は、林通政でしたが討ち取られてしまいます。

一度だけではなく二度までも一向一揆衆を鎮圧出来ないばかりか、退却時に待ち伏せにあって屈辱的な被害を出してしまった織田信長。
長島一向一揆に関わる全ての門徒衆を必ず殲滅すると固く誓ったのです。
そこには、女子供の門徒宗も含まれていました。

この長島一向一揆殲滅は、感情的な行動ではなく、加賀・雑賀など各地で起きている一向一揆や石山本願寺(総本山)に対して、織田信長が本気を出したらどうなるかという脅威を与える意味もあったのです。

第三次長島侵攻

1574年(天正2年)7月13日
三度目となるこの長島一向一揆鎮圧(第三次長島侵攻)には、明智光秀羽柴秀吉など一部の将を除く、多くの将が参陣したのです。

水軍を含めると12万という、かつてない大軍が注ぎ込まれたことからも織田信長の本気度が伺えます。

新たに編成された水軍は、滝川一益と九鬼嘉隆が中心となって編成されました。
この水軍は、中州への兵の搬送だけでなく、海からの攻撃も追加したものだったのです。

一方、織田軍が今まで以上の大軍で攻めてくることを知った門徒たちには、焦りなどは見られませんでした。

一向宗の指導者・下間頼旦は、二度も織田の大軍を撤退させただけでなく、待ち伏せによって多大な損害を与えたこともあり過信していたのです。

また、織田軍が新たに導入してきた水軍についても影響がほとんどないと考えていたのですが、やがてそれが甘かったということを痛感するようになるのです。

織田軍は、伊勢の津島から三部隊に別れると、市江口(東方面)に織田信忠(信長の長男)3万、賀鳥口(西方面)に柴田勝家3万、早尾口(北方面)に織田信長の本隊4万という大軍が着陣します。

一方の水軍も滝川一益の安宅船20隻、九鬼嘉隆の安宅船100隻を中心とした2万人の大船団で大湊を北上して長島に向かっていたのです。
これにより、長島の一向一揆衆たちは東西南北を織田軍によって完全に抑えられ、身動きの取れない状態となったのです。

このことを知った下間頼旦を中心とする長島の一向宗上層部は慌てふためきましたが、時すでに遅しというものだったのです。

唯一の望みは、何とか籠城戦を耐え抜いて織田軍が撤退するような事態が発生することを仏に祈り続けることでした。

1574年(天正2年)7月14日
長島一向一揆鎮圧(第三次長島侵攻)の火蓋が切って落とされたのです。
最初の攻撃を開始したのは、東方面の市江口に着陣していた織田信忠の隊。

織田信忠の先鋒を務めていた森長可が突撃を開始すると、それに続くように池田恒興も攻め込んで、市江口の市江砦はあっという間に壊滅してしまいます。




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織田信長本隊は、かつて弟の織田信興が守っていた小木江城を包囲して一向一揆勢に対して総攻撃をかけたのです。
小木江城は、8000の兵で守っていましたが。城の内部を把握していた信長にとって攻略することなど容易いものでしたので、ここもほどなくして陥落します。

西方面の賀鳥口に着陣していた柴田勝家も香取砦を攻略すると、続く大鳥居城の攻略にあたっていたのです。

1574年(天正2年)7月15日
織田水軍の大船団は、大島砦、加路戸砦を船上から鉄砲などで総攻撃後、上陸してあっという間に占領してしまいます。

その後、滝川一益は長島の周囲を包囲して、九鬼嘉隆は織田信忠の隊を長島に輸送したのです。
織田信忠は、上陸するとすぐに池田恒興たちを篠橋城の攻略に向かわせたのです。

また、小木江城を攻略した織田信長本隊も長島に上陸を開始します。
織田信長の本隊も上陸が完了すると、前田利家たちを松ノ木砦攻略へ向かわせたのです。

対する一向一揆衆たちも奇襲作戦などに出ますが、後続として上陸した織田軍に見つかり、次々と討ちとられていったのです。

松ノ木砦の陥落を知った一向一揆衆は、このままでは守りにくい願証寺も簡単に陥落してしまうと考え、本拠地の長島城へ移ったのでした。

四方から織田の大軍によって攻撃された一向一揆衆は、長島城、大鳥居城、篠橋城、中江城、屋長島城の5か所に逃げ込んだのです。
しかし、これらの城も全て織田軍に包囲され、一揆勢は籠城戦を迫られることになったのです。

これらの城は、織田軍からの攻撃を昼夜関係なく受けることになります。
負けが明らかだということを悟った一揆勢は、降伏を申し出ます。
しかし、織田信長は断固として受け入れず、兵糧攻めを続けたのです。

1574年(天正2年)8月2日
大鳥居城から夜中に抜け出した一向一揆衆が見つかり、約1000人が織田軍に討ち取られます。
織田軍には、一向一揆衆の殲滅命令が出ていたので、そこには女子供関係なく含まれていたのです。
これにより、鳥居城は陥落したのでした。

兵糧攻めから約1ヶ月経った8月12日に篠橋城を守る日根野弘就から使者が来ます。
「篠橋城の全兵は、織田側の味方となります。」
「そして、篠橋城を明け渡すので全兵を長島城へ入らせてほしい。」
「入城後は、城の全問を開放するので合図とともに突撃して欲しい。」
というものでした。




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織田信長は、この提案を受け入れます。
一向一揆側にとってみれば兵糧が尽きたため長島城へ移りたいという作戦でしたが、信長にとっても攻略する城が1つ減ることは好都合だったのです。

その後1か月以上、特に大きな動きもなく籠城戦は続きますが、長島城では人数が増えたことで兵糧の減りが早くなり、多数の餓死者が出ていました。

これに耐え切れなくなった長島城では、9月29日に降伏を申し出ます。
織田信長は、降伏を受け入れたのです。

怒りと殲滅

降伏した一向一揆衆は、伊勢・長島城を織田信長に明け渡すために城外に出て船に乗り込むことになりました。

一向一揆衆が次々と船に乗り込もうとしていると突然、織田軍の鉄砲が一斉に火を噴いたのです。
この鉄砲攻撃によって一揆勢の指導者「顕忍」「下間頼旦」も射殺されたのです。

射殺されなかった者も女子供関係なく次々と斬り捨てられていきます。
これに対して800人ほどの一揆衆が、織田軍の手薄と思われる方面へ刀で突撃するという捨て身の反撃を仕掛けたのです。

この反撃は、もしもという時の伏兵だったという説もあります。
これにより、織田方も織田信広(異母兄)、秀成、信次、信成、信昌(弟)などの織田一族を含む約1000人が討死したのです。

また、この混乱によって包囲を突破した一向宗門徒たちは、無人の陣小屋で仕度を整えて多芸山や北伊勢方面を経由して摂津の石山本願寺へと逃亡したといわれています。

鉄砲による一斉攻撃から敵方の思わぬ攻撃によって一族の多くを失うという格好となった織田信長。
この怒りは、いまだに篭城を続けている中江城と屋長島へと向けられたのです。
両城には、まだ2万を超える一向一揆衆が籠城していました。

織田信長は、城の周りを幾重にも柵で囲んで逃げ出せないようにして、四方から火をかけるように命じたのです。

燃え盛る炎の中で泣き叫びながら息絶えていく一揆衆の様子は延暦寺焼き討ちを上回るほどの地獄絵図だったとも言われています。
この長島一向一揆で亡くなった門徒衆は、3万人を超えているといわれ、この中には女子供も多数含まれているのでした。




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織田信長による長島一向一揆鎮圧によって、この土地での一向宗による自治領は完全に崩壊します。
そして、伊勢は一向宗に替わって織田信長が支配することになったのです。

織田信長による長島一向一揆殲滅は、石山本願寺だけでなく、これまで勢力を伸ばしてきた寺社や戦国大名に大きな衝撃を与えるものだったのでした。

(寄稿)まさざね君

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