関ケ原の戦犯は毛利輝元か?

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天下分け目の「関ケ原の戦い」が行われていた9月15日。
Twitterでは石田三成が、#関ケ原2020を立ち上げ、今年も負け戦を実況していました。
石田三成は逃走から6日目の9月21日に捕縛されていますが、2020年はMKタクシーを利用しレバノンに逃亡するようです…。

ネタはさておき、1600年(慶長5年)に勃発した関ケ原の戦いでは、ドラマや小説などの影響もあって石田三成が完全戦犯扱いされてきました。

しかし石田三成は豊臣政権の一官僚であり、軍を指揮する器も権力もありません。
人望が無かったとも言われていますが、実は石田三成に全ての罪を隠し、保身に走った大名がいました。




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ズバリその大名とは、豊臣政権の五大老であり、西軍総大将でもあった毛利輝元です!無能・暗愚と評判の悪い毛利輝元ですが、実は想像以上に狡猾な人物でした。

今回は全ての罪を着せられた石田三成の名誉回復のために、戦犯毛利輝元の人格と関ケ原までの愚行を紹介します。




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保身が大切なおぼっちゃま

毛利輝元は一代で山陽・山陰地方を手中に治めた、戦国時代大名「毛利元就」の孫です。
1553年(天文22年)に生まれた輝元は、生まれながらのおぼっちゃまでした。

父である毛利隆元が40歳で急死したため、輝元は11歳で家督を継ぎますが、実権は相変わらず祖父元就が握り、叔父である小早川隆景吉川元春は輝元の目付け役となります。

祖父が隠居しようとした際、輝元は父上の時は40歳まで後見したと駄々をこね、引き留めてしまうほどの甘ったれでした。

また軍事機密を他人に漏らす迂闊さもあり、輝元は毛利家の当主でありながら、叔父二人から激しい折檻や叱責を浴びせ続けられて育ったのです。

現代でも虐待や体罰を受け続けた子は萎縮しやすく、怒られないために嘘を付いたり、表面上はいい子のふりをするなど保身に走ります。

毛利輝元の場合、本来傅かれるの当主の立場でありながら、権力や権威は祖父と叔父の威光があればこそでした。
その上鬼教育を受けていたので、性格に歪みが生じてしまったことは間違いありません。




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叔父が生きていた頃は手綱を握られていた輝元は、豊臣秀吉大坂城を築城した頃、家臣の妻を強奪する事件を起こします。

吉川元春が亡くなり、豊臣政権の五大老として邁進していた小早川隆景の目も離れた、1584年(天正12年)頃、輝元は家臣「杉元宣」の妻に一目惚れし、強奪して側室にしてしまったのです。

しかし妻を奪われた杉元は激怒し、「秀吉に訴状を送る」と騒ぎたことで輝元は慌てて小早川隆景に相談しました。
そしてやはり激しく叱責されています。
この時輝元32歳…。
強奪された妻はわずか13歳でした。

叔父に雷を落とされ、一次は女を手放したものの、叔父がいなくなると輝元はなんと家臣を殺し、自分の側室にしてしまいました…。
のちに二ノ丸殿と呼ばれた側室は、その後初代長州藩主となった毛利秀就を産んでいます。

また関ケ原以降、徳川家康の配下になった輝元でしたが、大阪冬の陣の際に家臣である「内藤元盛」の名前を「佐野道可」と変え、大坂城に忍び込ませていました。
勿論毛利家を守るため、真田方式で両軍の様子を探っていたのです。

結果豊臣が滅亡し、内藤は捉えられてしまいました。
ただ忠義に篤い内藤やその息子たちも、元盛単独の行動であったと当主の責任を回避しています。

何故なら輝元は、内藤に特命を与える際、家や息子たちを守ると約束していからです。
息子たちの証言により嫌疑の晴れた輝元でしたが、なんと保身のために息子たちも自刃に追い込み、内藤家を断絶させてしまいました。

輝元の行動は一見すると毛利を守るものですが、彼の根底にある心理としては、幼少期のトラウマから「怒られたくない」という自己保身のみだったように見えます。

ノリノリで大坂城入り

関ケ原の戦いで、西軍の総大将となった毛利輝元。
大坂城からまるで動かなかった輝元は、今まで徳川との戦は乗り気ではなかったと言われていました。

しかし史実では、猛スピードで大坂城入りしています。




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石田三成含む三奉行が出した手紙が輝元に届いたのは、1600年(慶長5年)の7月12日。

輝元が大坂城入りを決意したのは3日後の7月15日で、17日に広島を出立したのにも係わらず、19日には大坂城入りしています。
そもそも輝元が出立した17日には、輝元の子「毛利秀元」率いる6万人の精鋭部隊がすでに大坂城の西の丸を占拠していました。

秀頼護衛と大坂城への援軍としての出陣にしては、かなり短期間で準備が行われていたことが分かります。
嫌々出立したと言われる輝元ですが、実はノリノリで大坂城入りしていました。

天下取りには興味が無かったものの、輝元はこの動乱に紛れ、西国の領土を拡大しようとしていたのです。
そのため元々豊臣や秀頼を守るつもりは、ほとんど無かったのかもしれません。

その証拠に輝元は九州や四国方面に軍を送り、石田三成率いる西軍が徳川勢と対峙する、美濃や尾張方面にはほとんど援軍を出していませんでした。

石田三成は上杉と徳川の挟み撃ちを恐れ、当初美濃・尾張方面へ兵力を集中させるとの提案を輝元にしていたのです。
しかし輝元は家康が江戸から出てくるはずがないと楽観視し、三成の提案は無視していました。

そのため巷で言われるように、輝元が石田三成に操られていたとは言えません。また短期間で西軍を集結させたことからも、毛利輝元が暗躍していたと考えられるでしょう。

更に毛利家も一枚岩ではなく、吉川元春の息子「広家」は東軍に着いた黒田長政と仲が良く、裏切り者と名高い「小早川秀秋」の重臣も家康派でした。

輝元が決めたのか、それとも広家の説得があったのかは分かりませんが、結局関ケ原の戦い前日である9月14日に家康と和睦してしまいます。

そのため毛利家は「領土安堵」の甘言に騙され、関ケ原の戦いではそれぞれが西軍の邪魔をしていました。

家康本陣の背後という攻撃に有利な南宮山に布陣した広家は、先陣を務めず道を塞いでしまったため西軍は攻撃出来ません。
その時「兵糧を食べさせている」と言い訳したことから、「宰相殿の空弁当」と今も揶揄されています。

また小早川秀秋は開戦直後に裏切り、西軍を猛攻撃して味方の陣を崩しました。
そして毛利輝元は、大坂城から一歩も動かなかったのです。

この時もまた、己の保身に走ったと考えられる毛利輝元。
もし輝元が秀頼を御輿にして、精鋭部隊6万人とともに出陣していれば、間違いなく東軍に勝利していたでしょう。

維新後に隠された人物像

関ケ原の前日に家康と和睦した毛利輝元。
彼は全ての罪を石田三成に被せ、自らの保身を図りました。主君を守るため、吉川広家は何度も徳川家康に弁明します。

結局大坂城から輝元の花押入り書状が大量に発見され、毛利輝元は家康にあっさり領土を奪われます。




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当初家康は輝元を潰し、吉川広家に毛利家を継がせようとしていました。
山陽・山陰合わせて8ヶ国あった領土は、周防・長門(現在の山口県)の2ヶ国に減封されますが、その領土を広家に与えようとしていたのです。

しかしそれでは面目が立たないと、広家は必至に家康に掛け合い、毛利輝元が隠居して家督を息子の秀就に譲り、なんとか家名を残すことが出来たのです。

結局輝元は、またしても家臣に尻拭いをさせました。
その上毛利家を救った吉川家に対し、かなり強い恨みを残しています。

かろうじて家名は残せたものの、厳しい領土仕置きのおかげで120万石であった雄藩の毛利家は29万石まで領土を減らされ、生活は一気に困窮…。
朝鮮出兵での借金もあり、長州藩は極貧生活を長きに亘り強いられていました。

この時の屈辱や恨みを晴らすべく、長州藩では毎年正月とある儀式が260年以上続けられていたのです。

毎年正月、萩城に集まった藩主と藩士たちは、「今年は徳川を討つか否か」の問い儀式が行われていたと言われています。

こうして関ケ原での屈辱は先祖代々受け継がれ、最終的に明治維新を引き起こしました。
念願叶い、徳川を倒した長州藩は新政府となり、今もなお権力の中枢には薩長閥が残っています。

勝てば官軍の薩長もまた、徳川幕府の方が悪かったのだと、史実を塗り替えていきました。
最近暴かれつつありますが、江戸時代は最悪だった言われていたのはそのせいです。

毛利輝元の無能さは、黒田官兵衛や叔父の小早川隆景などが、しっかり文章で残しています。
「天下を取る器ではない」「天下の主になれば、天下も毛利も失う」など、酷評されていました。

関ケ原の戦いに至っては、6万もの軍勢を持ちながら、城から出てくることも援軍を出すこともしなかった毛利輝元は、やはり褒めようが無い人物だったのです。

幕末期に高杉晋作はむりやり褒めていましたが、最終的に我らが主君は、関ケ原の戦いに乗り気ではなかったと有耶無耶にされてしまったのでしょう。

大河ドラマでも関ケ原の戦い直前に、ちらりと登場する程度の地味な役として、毛利輝元は登場します。
そのため歴史に興味の無い人にとっては、記憶に残らない人物かもしれません。

しかし実は保身のためなら味方を犠牲にし、強いものには媚び、関ケ原の戦いで漁夫の利を得ようとしていた狡猾な武将だったのです。




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ただこの時の恨みが無ければ、長州が維新を起こす原動力は少なったかもしれません。そういう意味では、毛利輝元もまた歴史に名を遺した武将であったと言えるでしょう。

(寄稿)大山夏輝

毛利輝元とは【かろうじて毛利家をつないだ戦国大名】

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