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今回、関ヶ原の戦いにおける史跡を2日間で周っている際、長宗我部元親の陣跡へと向かっている養老町橋爪の途中で、なにやら「石碑」があるな?と、目にとまった次第です。
石碑には「丸毛兵庫頭・稲葉備中守等奮戦の地」と掘られています。
当然、予定外であるため、事前調査皆無だったので、帰ってから調べてみました。
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牧田の戦い
どうも、この付近で1525年に「牧田の戦い」(牧田合戦)があったようです。
小谷城主・浅井亮政が北国街道から関ヶ原を抜けて、伊勢街道(多良街道)と進み、牧田に陣を構えます。
これに対して、美濃守護であった土岐頼芸は、栗原山まで軍を進めたと言います。
栗原山は象鼻山との尾根続きの北側にあるとの事です。
土岐頼芸に従っていた大墳城主・丸毛兵庫頭や、曽根城主・稲葉通則(稲葉備中守通則)は子の5人である稲葉通勝、稲葉通房、稲葉通明、稲葉豊通、稲葉通広と共に出陣します。
8月2日に牧田合戦となると、浅井勢と激戦となり、丸毛家は戦功をあげましたが、稲葉通則は、子の5人と共に討死してしまいました。
そのため、出家し快川紹喜のもとで修業をしていた稲葉良通が呼び戻されて、稲葉家の家督を継ぎます。
この稲葉良通こそは、のち斎藤道三に仕え、西美濃三人衆の1人として活躍する「稲葉一鉄」です。
一鉄と言うのは法名となります。
関ヶ原の戦いで稲葉貞通は?
1579年に家督を継いだ稲葉一鉄の子・稲葉貞通は、1588年に郡上八幡城主となり、郡上八幡城の大改修をしています。
1590年の小田原攻めでは、北条氏規が籠城した韮山城を攻撃しました。
関ヶ原の戦いにおいては、岐阜城主・織田秀信の命を受けて、徳川家康の侵攻を阻止するため犬山城を守備しています。
旧交のあった福島正則より東軍参加を勧められると、稲葉貞通は東軍に寝返りました。
しかし、東軍の遠藤慶隆、金森可重らに攻撃されている郡上八幡城が、引き続き攻撃されたため、救援に向かいます。
遠藤慶隆はかつて郡上八幡城主でしたが、豊臣秀吉によって改易されており、どうしても城を奪取したかったようです。
八幡城の戦いとなり、双方多数の死傷者を出しますが、和議が成立すると、両陣営とも徳川家康の元を訪れて東軍本隊に合流しました。
そして、稲葉貞通は加藤貞泰と共に、長束正家が逃れた水口・岡山城攻めで功績を挙げたあと、最初は西軍に属したことを詫びる為、薙髪して謹慎します。
本来であれば本領安堵程度のところ、徳川家康は、4万石から5万石と加増して豊後・臼杵城主を命じたのでした。
ちなみに、江戸幕府にて権勢を誇った「春日局」の母は、稲葉一鉄の娘です。
もし、稲葉一鉄が僧侶のままでしたら、妻子を設けたとしても、春日局のように出世する一族繁栄はなかったかも知れませんね。
丸毛兵庫頭・稲葉備中守等奮戦地の場所
丸毛兵庫頭・稲葉備中守等奮戦の地、石碑がある場所は下記の地図ポイント地点となります。
・西美濃三人の稲葉一鉄とは~曽根城主の稲葉貞通と深芳野も
・長宗我部盛親陣址~九十九坊・栗原連理のサカキにあった陣跡【垂井町の関ヶ原合戦史跡】
・金屋川原の戦い~南宮山側でも戦闘となった関ヶ原合戦の追撃戦
・西美濃三人の稲葉一鉄とは~曽根城主の稲葉貞通と深芳野も
・郡上八幡城の訪問記~東常慶と遠藤盛数の争いと郡上八幡城のみどころ