西軍の関ヶ原史跡

長束正家陣跡への行き方~なぜ南宮山の関ヶ原西軍は動かなかったのか?

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長束正家陣跡は、南宮山の麓となる垂井町栗原集落にあります。
長束正家は水口城主12万石で、豊臣政権では石田三成らと共に、五奉行の1人として主に財政を担当していました。

1600年、石田三成が五大老の毛利輝元を擁立し、関ヶ原の戦いとなると長束正家は、大谷吉継と共に石田三成に協力します。

鳥居元忠が籠城した伏見城の戦いでは、長束家の家臣である甲賀衆・鵜飼藤助が、城内の甲賀衆を寝返らせることに成功すると言う、大きな貢献を果たしています。

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関ヶ原の戦いの本戦では、1500を率いて毛利秀元安国寺恵瓊吉川広家とともに南宮山に布陣。
合戦前には、浅野幸長と南宮神社付近にて交戦した他、池田輝政とも銃撃戦になったと言います。
しかし、徳川家に内通していた吉川広家が全く動かなかったため、積極的に出撃できず、西軍が壊滅すると居城・水口城へと撤退開始しました。

撤退時には、島津義弘の退却を助けるために、家臣を道案内のため派遣したとも言われています。

なお、水口城を目前にしたところで、山岡景友(山岡道阿)らの軍勢に捕捉されて敗走します。
この時、弟・玄春が捕らえられ処刑されましたが、家臣・松田秀宣の活躍で、長束正家は辛うじて水口城に入りました。
松田秀宣は、蒲生氏郷の元家臣で、殿(しんがり)を務め、長束正家が水口城に入るのを見届けると討死したとされ、その話を聞いた徳川家康も「アッパレ」と称賛したとされます。

その後、長束正家は東軍の亀井茲矩・池田長吉らの和睦交渉に応じます。
本領の安堵の約束を得て、城を出たところ、重臣・嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之らと共に池田勢に捕縛されてしまったのです。

捕えられた長束正家は近江・桜井谷にて、弟・長束直吉と共に家臣・奥村左馬助の介錯で切腹させられました。享年39。
首は京都三条橋で晒されています。
なお、重臣6命も同日、近江日野にて切腹となっています。

長束正家陣跡への行き方・アクセス

長束正家陣跡は、私が訪問した際に、見落としていただけかも知れませんが、場所の方向を示す、案内標識などは一切ありませんでした。
そのため、場所がわからなくて迷う事が多々あるかも知れません。
私の場合、予め良く調べて地図を見ながら行きましたので、スムーズに辿りつけましたが、関ヶ原の史跡の中でも、分かりにくい方です。
そのため、下記の地図を良くご確認の上、ご訪問願いたく存じます。

Yahoo!地図だと詳細にならない地区となっていますので、下記のオリジナルGoogleマップにてご確認願います。

なお、南側からグルッと道が表示されていますが、その南側からのアクセスは、車が走行困難な、道らしき道では無い未舗装路に見えました。
よって、GoogleMAPでは久保田造園さんと記載がある「東側から」入って、道の行き止まりにある、広い駐車スペースに止めさせて頂くのがお勧めです。
その駐車スペースの所に、ポツンと垂井町教育委員会設置の案内板があります。

冠石(かむりいし)

下記は近くにあった冠石ですが、由縁などはわかりません。

なぜ南宮山の西軍は動かなかったのか?

南宮山に布陣した西軍の毛利秀元・安国寺恵瓊・長宗我部盛親・長束正家は、吉川広家が動かなかったから、討って出れなかったとされています。
確かに、吉川広家は、南宮山では「先陣」とも言うべく、東軍の池田輝政・浅野幸長に最も近い場所に陣取っており、3000の吉川広家が先陣を切らない事には、1800の安国寺恵瓊や1500の長束正家が、後に続きにくい事はあったと思います。
また、吉川広家が妨害していたとしても、安国寺恵瓊や長束正家は、ちょっと「迂回」すれば無理をしてでも軍勢を差し向けることができたはずです。
しかし、南宮山の軍勢は出撃しませんでした。

この一番の理由は「先陣の権利」です。

南宮山にて総大将・毛利秀元から先陣を認められたのは、吉川広家です。
最初は長束正家が先陣を希望しましたが、吉川広家がどうしてもと言うので先陣を譲った形となっています。

その先陣には、合戦を開始すると言う権限が与えられており、それを破るのはご法度、すなわち命令違反となり、他人の手柄を横取りするようなものですから、武士の恥じでもあります。
なので、安国寺恵瓊・長宗我部盛親・長束正家が戦う気満々でも、先陣となっている吉川広家が戦闘を開始しないことには、後続部隊は待機している他ないのです。
もっとも、毛利秀元が布陣したのは南宮山の山頂近くで、麓から登るにしても1時間掛かる高所であり、出撃するのには適した場所とは言えません。
そのため、安国寺恵瓊・長宗我部盛親らはも毛利勢が東軍に内通していると疑った可能性も高く、疑心暗鬼になっていたとも考えられます。

例えば、毛利秀元が命令を下して、安国寺恵瓊や長束正家に迂回して戦えと言う事くらいはできたはずです。
しかし、大阪城にいる総大将・毛利輝元が「補佐」として帯同させたのが吉川広家(40歳)でしたので、毛利秀元(22歳)も、むげにもできなかったのでしょう。

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