杭瀬川の戦いと「勝山」~岡山本陣跡の訪問記
杭瀬川の戦い杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、関ヶ原の戦い(9月15日)の前哨戦となった1600年9月14日に発生した合戦です。9月14日のお昼頃に、徳川家康は3万とも言われる大軍を率いて美濃家坂に着陣します。この時、井伊直政・本多忠...
杭瀬川の戦い杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、関ヶ原の戦い(9月15日)の前哨戦となった1600年9月14日に発生した合戦です。9月14日のお昼頃に、徳川家康は3万とも言われる大軍を率いて美濃家坂に着陣します。この時、井伊直政・本多忠...
大垣城の歴史大垣城(おおがきじょう)は連郭輪郭複合式平城で、最盛期の規模は現在の敷地の広さからは想像もできない、4重にも水堀を巡らした総構えの城だったようです。大垣城の別名は麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも、牛屋城とも呼ばれま...
高橋元種(たかはし-もとたね)は、1571年に筑前の秋月城主・秋月種実の次男として生まれました。母は田原親宏の娘です。天正6年(1578年)、耳川の戦いのあと、8歳の頃に同盟者である小倉城主・高橋鑑種の養子となります。そして、攻め落とした香...
関一政(せき-かずまさ)は、伊勢・亀山城主である関盛信(関万鉄)の次男として1564年に生まれた。母は日野城主・蒲生定秀の娘であり、関氏は、六角義賢・六角義治に従っていた。織田信長が伊勢に侵攻すると、父・関盛信(せき-もりのぶ)は最後の方ま...
熊谷直盛(くまがい-なおもり)は、若狭国守護である武田氏の家臣と考えられます。同族とも言われている武将に熊谷直之(くまがい-なおゆき)がいますが、両名とも生年不明で、2人の関係も良くわかりません。ただし、熊谷直之は武田家の老臣とあることから...
福原長堯(ふくはら-ながたか)は播磨・赤松氏の一族である福原城主・福原則高の子として生まれたとされていますが、不確定要素は多いようです。豊臣秀吉に滅ぼされた福原則尚や福原助就の一族とされ、1577年、羽柴秀吉の命を受けた竹中半兵衛と黒田官兵...
戸田勝成(とだ-かつしげ)は、兄に戸田勝隆(戸田三郎四郎勝隆)がいるが、詳しい出自は不明。戸田武蔵守勝成、戸田半右衛門、戸田重政とも言う。最初は丹羽長秀の家臣で、その後、丹羽長重に仕えたとされるが、兄・戸田勝隆と共に豊臣秀吉の古参直臣であっ...