戸田勝成(とだ-かつしげ)は、兄に戸田勝隆(戸田三郎四郎勝隆)がいるが、詳しい出自は不明。
戸田武蔵守勝成、戸田半右衛門、戸田重政とも言う。
最初は丹羽長秀の家臣で、その後、丹羽長重に仕えたとされるが、兄・戸田勝隆と共に豊臣秀吉の古参直臣であったとする説もある。
いずれにせよ、豊臣秀吉の直臣になると、戸田勝成は1万石にて越前・安居城主となったと言うので、それなりに優秀な武将と言える。
そして、豊臣秀吉の九州攻め、1590年の小田原攻めにも参陣。
朝鮮出兵では、肥前・名護屋城に在陣した。
また、伏見城の普請の功績もあり、豊臣秀吉が没したあと、1599年には加増されて2万石となっている。
1600年、関ヶ原の戦いでは石田三成に協力し、最初は北国口を守備した。
その後、大谷吉継に従った北陸衆の一部として美濃へと転戦。
西軍が入った大垣城での軍議にて、石田三成の野戦論に決すると、末席に控えていた戸田勝成が声をあげたと言う。
われ、末座にありながら、中納言様(宇喜多秀家)、また奉行衆の御前も憚らず申し上げる。
こたびの合戦は大事なれば、利あらずば、それがしは一足も去らず討死いたす所存。
これについて御大身の方々に申し上げたい。
本来、人命を惜しむ習いに貴賤の別なし。
もし、われら小身者を眼前に捨て殺しにいたし、自分ひとり死を恐れて、この戦場を生きて逃れたならば、百年寿命を保とうとも、名は末代までも汚れましょうぞ。
この場で二心ある御方は、この武蔵守の言に恥じて、ただちに志を改めていただきたい。
戸田勝成(戸田重政)も、この西軍諸将の中に寝返りを考えている武将がいることをわかっていたのだろう。
これに対して石田三成は「武蔵守は若年の頃から気色ばんだことがなかったのに、今この時にあたって、荒言を申されるは御忠節のほどまことに頼もしい。味方の勇みともなるであろう」と称賛したとされる。
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こうして関ヶ原合戦においては、大谷吉継勢に従って平塚為広らと先鋒を務めた。
しかし、笹尾山の小早川秀秋が裏切ると、同じ北陸衆の脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠の4隊も寝返り、側面から攻撃を受けたため敗走。
逃亡する途中、戸田勝成は織田有楽斎の長男・織田長孝の東軍部隊に捕捉され、混戦の中で織田長孝の槍を頭部に受けて討死した。
討ち取ったのは津田信成とする説もあるが、これは下記のような経緯となる。
戸田勝成は旧知の津田長門守信成と槍をあわせ、突き伏せられる。
そこを織田長孝の家臣・山崎源太郎が横から首を横取りせんと向きって来た。
こりに対して、戸田勝成は山崎源太郎を睨んで「将たる者の首を取るには法がある。汝、覚悟はあるのか」と一喝したと言う。
そのため、山崎源太郎は怯み、かわってその主人の織田長孝が「承る」と応じて、首をとったとされる。
なお、織田有楽斎・津田信成ともに戸田勝成とは友人であった。
関ヶ原では、嫡男・戸田内記(戸田重典?)も同じく討死した。
東軍諸将とも親交があった戸田勝成の死には、皆、涙したと伝わる。
織田長孝は、この功でのちに1万石を加増されている。
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