笹尾山「石田三成陣跡」(島左近陣跡、蒲生郷舎陣跡)~石田三成の夢

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他の関ヶ原の史跡は、かつて陣地があった事を示すような「石碑」だけが概ね建っているのですが、ココの笹尾山(ささおやま)だけは、山腹に竹矢来と馬防柵が再現されています。
その為、関ヶ原の戦いにおける合戦史跡としては、最大の見どころになると思いますので、欠かせない観光スポットです。

1600年9月14日夜、雨が降る中、大垣城を出た西軍本隊は、南宮山の南から牧田を経由して、翌15日の早朝に関ヶ原へ到着し、朝5時頃には陣形を整えたとされています。
その西軍を追ってきた東軍も朝6時には配置が完了しましたが、雨上がりの関ヶ原は「濃い霧」に包まれていました。




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石田勢は6000の兵にて布陣すると竹矢来を二重に配置します。

笹尾山の竹矢来

島左近は果敢にも竹矢来の前方に陣取り、最前線にて指揮を執ったと言われています。
そして、右翼には家臣に加わっていた蒲生郷舎が陣取りました。

笹尾山の竹矢来

笹尾山の麓は、北国街道が小谷城長浜城方面に続いています。
すなわち、西に延びる北国街道を辿れば、石田三成も地理に明るい出身地で、関ヶ原からもそんなに遠くないです。

笹尾山の竹矢来

本来でしたら全軍の指揮官としては諸将の中心に居座った方が良いのです。
実際問題、徳川家康は、伝令も素早く行きわたるように、布陣的には不利ながらも、関ヶ原の中心に本陣を移しています。
石田三成のように、こんな端っこに本陣を置いたりはしていません。
しかし、石田三成がここに本陣を置いたのは、単に関ヶ原を見渡せると言うだけでなく、北国街道の抑えと、万が一敗れた場合の逃走経路としても、笹尾山がベストポジションであると、元々知っていたのと推測致します。
ただし、これは「負け」も想定していたと言わざるを得ません。

笹尾山の石田三成本陣跡

やはり「総大将」となるべく豊臣秀頼の出馬のみならず、代わりの総大将となった毛利輝元大阪城から出なかったのは大きいと考えます。
仮にも総指揮官が、戦にて戦功が皆無とも言える石田三成では、7万8万と徳川勢を上回る将兵を集めたと言えども、100%信頼できず、結果的に西軍は島津義弘もずっと動かなかったり、小早川秀秋らの寝返りを生んだものと言えるのではないでしょうか?

とはいえ、大恩ある豊臣秀吉が亡くなっても、豊臣秀頼の為、豊臣家の為に「義」を貫いた石田三成。
その一途な忠義に対して、誰もが魅力を感じるところなのではと存じます。




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笹尾山は簡単に登れます

そんな石田三成が陣を構えた笹尾山に、現在は遊歩道が整備されており、麓の駐車場から3~5分で簡単に登る事ができます。

笹尾山への登城口

山頂には「石田三成陣跡」の碑があり、指揮台(展望台)も復元(再現)されています。

石田三成陣跡

しかし、そんなに広い場所ではありませんので、ほとんどの部隊は麓にて展開していたものと推測されます。

石田三成陣跡

GW~11月下旬頃までは、麓にある「関ケ原笹尾山交流館」でも、いくつかイベント企画が行われ、また「甲冑」をレンタルして、戦国武将や足軽に扮し、笹尾山を登る事も可能です。
※イベント内容は毎年変更される可能性がありますので、要確認でお願い致します。

合戦が始まると、目の前の畑付近は、黒田長政田中吉政らが笹尾山を目指して押し寄せ、関ヶ原最大の激戦地となりました。

笹尾山「石田三成陣跡」

なお、麓の山麓には、島左近陣跡蒲生郷舎陣跡もあります。
また、近くには関ヶ原合戦の決戦地碑が建っていますので、セットで見学しましょう。

笹尾山からの展望

さて、笹尾山へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点が無料の大きな駐車場となり、付近にトイレも完備されています。
ジュースの自動販売機はありません。(意味が理解できた方は、このサイトの常連さんですね。)

地図は縮尺を変えてご覧願います。

笹尾山の無料駐車場

また、オリジナルのGoogleマップも分かりやすくなっていると思いますので、ご活用賜りますと幸いです。

[clink url=”https://sekigaharamap.com/googlemap/”]

下記はご近所にある関ヶ原ウォーランドの石田三成です。

石田三成(関ヶ原ウォーランド)

島左近の陣跡(島清興の陣)

関ヶ原の戦いの際、島左近のいでたちは、兜に朱色の天衝の立ち物を備え、朱色の天衝で溜塗りの「桶がわ胴」の鎧を付け、木綿浅黄の陣羽織を着ていたと言います。
精鋭3000を指揮して挑みました。

島左近の陣跡

向かってきた黒田長政も、この頃までには優秀な鉄砲隊を備えています。
黒田勢の鉄砲頭・長菅政(菅正利)が高所に登って50挺の鉄砲で狙撃を開始すると、島左近は銃弾を受けて討死したとされています。
他にも、小早川秀秋が東軍に寝返ったことで、西軍が総崩れとなり、島左近は正面の黒田長政に突撃し、銃撃を受けて討死したともされています。

なお、島左近(島清興)の奮戦ぶりは、戦後、東軍諸将の間で語り草となり、黒田長政の兵士は「かかれ~」と言う島左近の声の「悪夢」を何度も見たと伝わるほどになっています。

蒲生郷舎の陣跡

蒲生郷舎は、浪人していたところを石田三成に拾われて家臣となっていました。
島左近とともに、先陣の右翼として奮戦激闘を続けたと言います。
しかし、西軍劣勢となるると、本多忠勝の指揮下に入っていた織田有楽斎(織田長益)によって討たれたとされています。
これは、織田有楽斎(織田長益)が挑発したため、腹を立て、敵中に向かったところを織田有楽斎の家臣に討たれたと伝わります。

蒲生郷舎の陣跡

蒲生郷舎陣跡がある場所は、ちょっと分かりにくいです。
竹矢来と馬防柵がある笹尾山の「中段」を、ずっと西にある林の直前まで進んだところとなります。
下記の地図にて、位置関係をご確認賜りますと幸いです。

関ヶ原史跡「実用Googleマップ」~観光のお供に便利な地図

ただし、この蒲生郷舎には注意しなくてはいけません。

蒲生郷舎ではなく蒲生頼郷か?

蒲生郷舎(がもう-さといえ)は、蒲生氏郷のもと、4万石として白石城主も務めた武将ですが、その後出奔し浪人しました。
関ヶ原の戦いの前には、確かに石田三成の家臣になり、関ヶ原でも戦ったようです。
しかし、蒲生郷舎は戦後、蒲生家に帰参し、藤堂高虎に仕えています。
1613年には、再び蒲生家に帰参すると、蒲生郷舎は15000石にて三春城主となりました。
そのため、蒲生郷舎は確かに石田家の家臣だったようですが、討死はしていないようです。

蒲生郷舎の陣跡

この時、石田家の家臣になった蒲生氏は別の武将もいて、その武将の名は蒲生頼郷(がもう-よりさと)です。
この蒲生頼郷(蒲生備中守頼郷)は13000石にて塩川城代でしたが、蒲生郷舎同様に出奔し、石田三成の家臣に加わっていました。
蒲生頼郷(蒲生備中守頼郷)は、織田有楽斎(織田長益)を負傷させる活躍をしますが、千賀文蔵の兄弟に討ち取られたとされています。

よって、石田三成の陣跡付近にある「蒲生郷舎陣跡」と言うのは、決して間違えではないのですが、ここで討死したのは蒲生郷舎ではなく、蒲生頼郷になるのではと推測致します。

ともあれ、頼りの島左近も討死し、盟友・大谷吉継も自刃。
石田三成は豊臣家の力を取り戻すべく「夢」の実現の為、どうしても勝ちたかった合戦だったでしょうが、無念の敗走をしたのでした。

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石田三成勢のおさらい

先手–島左近、蒲生頼郷
後陣–織田信高・織田長次、伊藤長実、中島種長、滝川忠継、服部土佐守、寺田播磨守、岸田伯耆守、高田薩摩守、秋田助右衛門、矢部豊後守、三渕大和守、大坂弓鉄砲衆など

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