渡辺勘兵衛(わたなべ-かんべえ)は、渡辺新之丞(しんのじょう)とも文献に記載されることがあり、同じく石田家の重臣になった島左近(島清興)に似た逸話がある。
同じく渡辺勘兵衛と称し増田長盛や藤堂高虎が召し抱えた渡辺了(わたなべ-さとる)とは別人となるので、これまたややっこしい。
渡辺勘兵衛は、柴田勝家や羽柴秀吉から2万石で家臣にならないか?と誘うと「10万石でないとダメだ」と断っていたほどの豪傑とされ、他の大名からも評価が高い武将であったが、それらの勧誘はすべて断っていたと言う。
しかし、豊臣秀吉の家臣である石田三成がまだ500石だった頃に、渡辺勘兵衛はあっさりと仕えた。
当時の石田三成はまだ小姓に過ぎず、不思議に思った豊臣秀吉が訊ねると「自分の500石の知行全てを与えた」と言う。
そして、石田三成自身が100万石となった場合には、渡辺勘兵衛に10万石を与えると約束したと話した。
家禄すべてを渡辺勘兵衛に与えてしまった石田三成は「勘兵衛の家に居候になります」と行ったので、豊臣秀吉は大笑したとの逸話が残っている。
なお、石田三成が佐和山城主になった際、渡辺勘兵衛にも加増しようとしたが、このとき「殿が100万石の大名になるまで知行500石のままでいます」と渡辺勘兵衛は断ったとされ、500石のままであったと言う。
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そして、1600年、関ヶ原の戦いでは、主君・石田三成に従い、黒田長政の家臣・後藤基次(後藤又兵衛)と一騎打ちをする。
しかし、石田勢は敗走となり、重傷を負っていた渡辺勘兵衛は自刃して果てたと言われている。
自害する際、今生の別れと石田三成に会いに行ったが「そなたの10万石も、夢となってしまった」と嘆く石田三成に対して、これまでの恩義に対する感謝を述べたと言う。
なぜ、500石にて渡辺勘兵衛は石田三成の家来になり、また、500石のまま死んでいったのかを考えると、石田三成にも、それなりの魅力があったものと感じずにいられない。
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