松尾山の小早川秀秋陣跡~登山道と駐車場の紹介【関ヶ原の史跡】

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1600年、徳川家康が大勝利を収めた、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」にて、大きなポイントとなったのが、西軍を裏切った小早川秀秋です。
そんな、小早川秀秋が、なぜ松尾山と言う山の上に布陣したのか?、なぜ、そんな場所から裏切ったのか?を考えながら、登山してみました。




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松尾山への行き方と駐車場

まず、松尾山への行き方・アクセスですが、松尾山は私の実測で標高292mの山です。
麓の駐車場が標高102mですので、高低差(比高)は190mとなります。

麓(登山口)に約6台ほど止められる無料駐車場があります。
JR関ヶ原駅からこの駐車場まで歩くと約30分です。
下記の地図ポイント地点が駐車場の場所となります。
地図は縮尺変えてご覧願います。

レンタル自転車で訪れる際にも上記の駐車場付近に止めての登山となります。
ハイキングコースは東海道自然歩道になっており、整備されていますので、最低限スニーカーであれば大丈夫です。
私の場合は、山城装備(トレッキングシューズ、トレッキングポール持参)にて登りました。
私の装備品など詳しくは下記をご参照願います。

[clink url=”https://sekigaharamap.com/keikaku/”]

それでは、記事の信頼性も高めるため、実際に訪問させて頂いた際の内容もご紹介させて頂きます。

松尾山の小早川秀秋陣跡

比高190mは、山城としては高低差があるほうです。
特に下りでは足に負担が掛かりますので、トレッキングストックがあると疲労軽減になります。
ただし、私が訪問した際には、登山口には木の枝で作った「杖」が貸りる事ができるようにご配慮させていました。
ありがたい心遣いですね。

松尾山への登山口

駐車場にトイレははなく、途中にもありませんが、山頂付近には一応トイレあります。




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松尾山への所要時間

松尾山は関ヶ原の南側にある山となります。

松尾山の登山道

登山道は基本的に階段が少ない坂道となっていますので、めちゃくちゃキツイ訳ではありません。

松尾山への登山道

途中には案内標識もありますので、迷う事もないでしょう。

小早川秀秋陣跡への登山道

東海道自然歩道になっているようで、登山道もきちんと整備されています。

松尾山への登山道

階段が少ない分、遠回りなので、距離があり時間が掛かりますが、ちょっとしたハイキングとしては楽しめます。
松尾山への観光所要時間ですが、駐車場から私の単独行動で行き(登り)が35分、帰り(下り)が30分でした。
複数人行動などの場合にはプラス10~30分くらい時間を多めに見て下さい。

松尾山からの眺め

雨が降りそうな場合にはレインコート、また夏場には熱中症対策として水分補給の体制、あと虫除けスプレーや日焼け止めもあると良いかと存じます。
行程的には、グルッと廻って行く感じなのと、登ったらまた下ると言う上り下りが3箇所くらいもあり、私が一番嫌いなパターンである非常効率が悪い登山となります。
しかし、登ってみると松尾山からは関ヶ原を一望できますので、是非お勧めしたい観光スポットの1つです。

松尾山からの展望

私が訪問した4月の平日朝では、駐車場には3台の先客がおられました。
しかし、松尾山への往復では誰にも会いませんでしたので、史跡巡りの方が止めていた訳ではなさそうでした。

松尾山は古城だった

松尾山は南北朝時代に築かれたと考えられる城で、松尾山城、長亭軒城とも呼びます。
築城は不詳ですが、1394年~1428年頃に、富島氏が築いたとされています。
1570年に、浅井長政織田信長との同盟を解消した際、織田勢の侵攻を防ぐため、苅安砦主の樋口直房に松尾山を占拠させ、砦として改修させたようです。

松尾山城

しかし、竹中半兵衛が樋口直房を調略した為、松尾山は織田勢の管理下となり、不破光治が松尾山を守備しました。
この時にも、もちろん改修が行われたようです。
下記写真の場所は「堀切」のように見えます。

松尾山城の堀切

途中には「郭」や「曲輪」として使用されたのかな?と思えるような跡地が点在していました。

松尾山城

明らかに郭のような場所もありますが、そんなに広くはありません。

松尾山城

1575年に、不破光治は越前・龍門寺城主となっていますので、その頃には松尾山は放置され使われなかったと考えます。
ところが、1600年、関ヶ原の戦いにて小早川秀秋が、この松尾山に本陣を置いたことから、一躍、有名な場所となった訳です。

小早川秀秋の陣跡

山頂の本郭は、周りが「土塁」で囲まれており、南西部には「虎口」もあります。

松尾山城の本丸土塁

今回は時間の都合で、他の郭などみませんでしたが、結構、見どころがある山城だと存じます。

松尾山城の虎口

最初は伊藤盛正が布陣した?

私も、関ヶ原を訪れるまでは存じ上げていなかったのですが、関ヶ原の戦いにて、最初に松尾山に布陣したのは、伊藤盛正(伊藤長門守盛正)だったそうです。
この伊藤盛正(伊藤長門守盛正)は、元々、大垣城主だったのですが、石田三成がやってくると大垣城を提供するように言われて、やむを得ず、大垣城を明け渡し、西軍に加わっていました。
西軍が大垣城を出て、関ヶ原に展開した際に、伊藤盛正(伊藤長門守盛正)はいち早く松尾山に布陣しています。

松尾山城

しかし、そのあとにやって来た小早川秀秋に、松尾山から退去するように言われて、追い出されると言う可哀想な御仁でもあります。
伊藤盛正のその後の布陣は不明ですが、関ヶ原の本戦では西軍として戦ったため、改易されると京で浪人となっています。




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松尾山城に徳川の鉄砲は届いたのか?

小早川秀秋が松尾山に入った際に、徳川勢から目付け役として奥平貞治と、黒田長政の家臣・大久保猪之助が小早川家と共に行動しています。
どういうことかと申しますと、小早川秀秋は、松尾山に布陣した時点で、既に徳川家に「寝返りすると約束していた」と言う事になります。
その約束がきちんと守られるように、徳川家の家臣が帯同していたと言う事です。

となると、まぁ、石田三成や大谷吉継は、小早川秀秋は裏切ると言う事を事前に察していたものと推測致します。
裏切るとわかっていても「お前、裏切るのか?」と聞いたところで「信用しないのなら帰る」と突っぱねられます。
そんな事態となるとも疑心暗鬼となって西軍が戦う前に崩壊するのが、分からない石田三成や大谷吉継らではありません。
また、小早川勢は17000もの大軍ですので、開戦前に寝返りが将兵に知れ渡れば、士気は下がり、戦う前から兵士が逃亡するのが目に見えてます。
実際問題、大垣城にいた時には、徳川家康が岡山に布陣しただけで、西軍兵士に動揺が走っている訳ですし、そのため、結果的に最後まで仲間を「信用する」しかないんですよね。

そう考えますと、大谷吉継の布陣を見ても、小早川家が裏切っても対応できる体制を取っていたと言え、石田三成は裏切り者から、最も遠い位置に布陣したのも、良く理解できる訳です。
下記は、松尾山から笹尾山方面を望む写真です。

松尾山から笹尾山を望む

皆様よくご承知なのが、なかなか小早川秀秋が寝返らず、松尾山から動かなかったので、徳川家康が腹に据え変えて、鉄砲を松尾山に向けて撃たせて「催促」したと言う話があります。
しかし、麓から山頂までは比高だけでも190mと言う急峻な山城ですので、松尾山の本陣には、とても鉄砲が届く距離ではありません。

松尾山から関ヶ原の眺め

小早川秀秋は西軍最大の17220もの兵数でしたが、松尾山城は、それだけの大軍を収容する事もできそうだと思えるくらい、意外と城域も大きな山城です。
しかし、現在、展望台となっている「山頂部」は、そんなに広くはありませんし、山麓の曲輪や郭にも多くの兵が入りきれたどうか、実際問題よくわかりません。
それを考えますと、17000もの軍勢ですから、本陣となる山頂付近には入りきれず、山の麓付近など、至るところに布陣していた可能性はあるのではと存じます。
となると、鉄砲が届く距離である、麓付近にいた小早川勢に、鉄砲を撃ちかけて催促したのかな?と感じました。
当然、麓の部隊から「徳川勢より鉄砲を撃ちかけられました」と本陣に報告が届くは必然です。

小早川秀秋陣跡

小早川家の家老・平岡頼勝と稲葉正成は、黒田長政より早くから調略を受けていました。
しかし、関ヶ原本戦ですぐに寝返らなかったのは、小早川家が寝返るまでもなく、西軍が勝手に敗走するのを待つためであったと小生は考えます。
そうでなければ「傍観」に最適な、こんな山のてっぺんまで登って本陣を置きません。
寝返って戦功を挙げる為、またそのまま西軍として戦う気でもあれば、最初から麓(平地近く)に本陣を置くでしょう。
よって、小早川秀秋は、松尾山に布陣した時点では、戦う気は無かったと推測致します。

関ヶ原・小早川秀秋の陣

しかし、昼を過ぎても眼下では依然として西軍と東軍が戦い続けており、これ以上待っては、徳川家康からも怒られて得策では無いと考えたのでしょうか?
若干19歳であった小早川秀秋は、周囲の説得もあり、ようやく徳川との約束を守るために、松尾山を降りて西軍を攻撃すると言う決断をしたのかな?と、そんな事を考えながら、下山致しました。

もっとも、小早川家の全員が賛同した訳ではなく、小早川家の重臣・松野重元は独断で手勢と共に撤退しています。
ただし、この小早川家の寝返りにより、東軍の勝利が決定的なものになったのは間違いないでしょう。
西軍最大兵力で、頼りの小早川家が寝返っては、他の西軍兵士は戦意を喪失し、もはや合戦を遂行するだけの部隊維持も難しくなったものと推測致します。

そんな中、統率を欠くことなく、敵陣突破した島津義弘の島津勢の行動は、まさに賞賛に値すると存じます

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