西軍の関ヶ原史跡

関ヶ原の大谷吉継の墓や大谷吉継陣跡など大谷吉継の史跡への行き方

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石田三成の盟友として、最後まで石田三成に協力した勇士として、多くの戦国武将好きが親しみを感じているのが大谷吉継(大谷刑部吉継)です。
そんな大谷吉継は関ヶ原の戦いにて敗れ、現地で自刃しました。
そのため、大谷吉継の陣跡の近くには、大谷吉継の墓もあり、関ヶ原の見どころの1つとなっています。

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大谷吉継の史跡への行き方

国指定史跡「大谷吉継」の史跡となる「大谷吉継陣跡」「松尾山が見える展望地」「大谷吉継の墓」がある場所は、ちょっと山の中ですので、自転車・バイク・自動車共に、麓に止めて、徒歩で入る形となります。
徒歩と申しましても、遊歩道は整備されており、案内板もありますので、迷う事はありません。
また、無料駐車場から徒歩で往復しても、所要時間は40分程度ですので、軽い散策といったところです。

新しく設置された無料駐車場(約10台)は、下記の地図ポイント地点となります。

上記の駐車場は、目の前が「若宮八幡神社」への階段(参道)となり、そこから山(藤川台)に入って行きます。
大谷吉継(大谷刑部)の陣の高い所は概ね標高160m、麓の中山道が標高約125mですので、高低差(比高)は35mといったところです。
パソコン・タブレットの場合、各写真はクリックすると拡大します。

自転車は入れませんが、関ヶ原駅から歩くと50分くらい掛かりますので、レンタサイクルかタクシー、車での訪問が便利です。

若宮八幡神社への階段を登ると、JR東海道線の踏切があります。人だけが渡れる踏切です。
今回はちょうど特急が通過しました。

電車が来ていないか?、良く左右を確認して踏切を渡ると、すぐ若宮八幡神社となります。

若宮八幡神社の創建は不明ですが、1182年には、平知盛が社領として1貫文を寄進していますので、かなり昔から社があったようです。
1183年には源義経が200騎を率いて京に向かう途中、戦勝祈願しました。

その若宮八幡神社の社殿がある右脇から、山に登って行く遊歩道があります。

最初、ちょっと階段となりますが、すぐに藤川台に到着します。

この話は現地を訪れるまで、存じ上げなかったのですが、大谷吉継は関ヶ原の戦いが起こった9月15日よりも12日早い、9月3日にはすでにこの付近に平塚為広と共に着陣し、山中村の村人の協力も得ながら陣地の構築を開始したとの事です。
また、宇喜多秀家が布陣した陣地も整備したようですが、恐らくは嫡男・大谷吉治(大谷吉勝)も敦賀から駆け付けて、目が見えない父に代わり差配したのでしょう。
しかし、ココに関ヶ原本戦の前から陣地を築いていたとなると、既に8月10日に大垣城に入っていた石田三成らは、大垣ではなく、最初から、関ヶ原にて「決戦」を行うという考えもあった事と推測できます。

そもそも、この山は「山中城」とも呼ばれたようで、恐らくは南北朝の頃に、古城として使われた事もあったものと推測致します。
その城名にもなったように、この地の地名は「山中」です。

さて、若宮八幡神社から登って丘陵上に出て、右に進めば、松尾山を望む展望地となり、左に進めば大谷吉継の陣跡、さらにその奥に行くと大谷吉継の墓となります。

あと、大谷吉継(大谷刑部)の史跡(藤川台)へは他に2方向から入れるようになっています。
1つは、藤古川ダムがある方の道路沿い(平塚為広の碑があるほう)から入る事も可能です。

徒歩で宇喜多秀家の陣跡を訪問したあとは、こちらからの方が便利です。
場所は、当サイト・オリジナル地図のGoogleマップにてご確認願います。

眺望地から松尾山を望む

大谷吉継の陣跡よりも東にちょっと行ったところが、松尾山の展望も良い眺望地となっています。

ご希望であれば、大谷吉継(大谷刑部)の影武者に扮することも可能です。

下記写真は、この眺望地から見える松尾山(小早川秀秋の陣跡)です。

大谷勢は総勢3500とされていますが、大谷吉継が直接指揮したのは500~600と見られています。
残りの2500は大谷吉治(大谷吉勝)、木下頼継(大谷吉継の次男?)が1000、戸田勝成540、平塚為広360と、陣中に加わった織田信長の子・織田信吉が500、織田長次、蜂須賀家政の家老・高木法斎らも大谷勢に加わっています。
大谷吉治(大谷吉勝)の陣地は諸説あり不明ですが、恐らくは、山中にある大谷吉継の陣がある藤川台とは異なり、中山道の対岸となる現在の東海道新幹線や名神高速が通っている丘陵地であったと推測できます。

ちなみに、大谷吉継は、関ヶ原の戦いの直前に改名し、大谷吉隆と称しました。

大谷吉継陣跡

関ヶ原合戦誌によると、大谷吉継は、もう少し西側の山中村宮上に陣を築いていたとされます。
ところが、関ヶ原本戦の9月15日朝になって、藤川台(口北野)、すなわち、現在、大谷吉継の陣跡の石碑がある場所に、布陣し直したとされます。
恐らくは、小早川秀秋が寝返ると言う情報を得て、小早川家の裏切りに備える為、陣を移転させたものと考えらます。
小早川秀秋などが関ヶ原合戦の前から「寝返る可能性がある」と言うのは、石田三成も把握していたのはほぼ事実です。
そのため、戦勝の暁には大幅に加増するなど、なんとか西軍に食い留める交渉もしていました。

大谷勢は、戸田重政の父子、平塚為広と共に寺沢広高らと戦いました。
そして、小早川秀秋が寝返り15000が横から襲って来ると、大谷吉継が500で対応したと言います。
小早川勢の監視役であった奥平貞治に重傷を負わせると言う奮戦も見受けられますが、脇坂安治赤座直保小川祐忠朽木元綱ら4200も寝返ります。
この劣勢はどんなに優秀な武将でも覆す事はできなかったでしょう。
運も尽きた大谷勢は壊滅します。

ちなみに、石田三成など多くの西軍武将は、関ヶ原からの脱出に成功しています。
大谷吉継は、この時すでに目が見えなかったと言うハンデはあったかと存じますが、逃げようと思えば逃げれたのではないかと思います。
しかし、大谷吉継は自害と言う道を選択しました。

大谷吉継の墓・湯浅五助の墓

大谷吉継の陣があるところから、北へ伸びる道を約5分ほど進むと、山の中にひっそりと大谷吉継の墓所が見えてきます。

大谷吉継は湯浅五助(湯浅隆貞)に介錯を命じ、また、ハンセン病で「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と言い残して果てました。享年42。

常山紀談によると、自刃した大谷吉継(大谷刑部)の首は、湯浅五助(湯浅隆貞)が戦場から少し離れた場所に「埋めた」とあります。

すぐに、湯浅五助(湯浅隆貞)は藤堂高虎の配下・藤堂高刑に捕縛されたようです。
その時、湯浅五助は主君の命を忠実に守る為「私の首の代わりに、大谷吉継の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼みます。
そして、藤堂高刑はその頼みを受け入れ、湯浅五助の首を取ったとされています。

藤堂高刑が、大谷吉継の側近・湯浅五助(湯浅隆貞)を討ち取ったのを藤堂高虎は、すぐに徳川家康の本陣に報告しました。
本陣に赴いた藤堂高刑が湯浅五助(湯浅隆貞)の首を徳川家康に見せると、大谷吉継がどこにいたのか?、藤堂高刑は知っているはずだと問い詰めます。
大谷吉継の首を持参すれば、藤堂高刑はそれこそ大手柄でした。
しかし、武運なく敗れた大谷吉継の心境や、主君を思う湯浅五助との約束を守り、かたくなに所在地すら言わなかったとされます
手柄よりも武士と武士の約束を守り通した藤堂高刑、また自分の首と引き換えに、大谷吉継の首を守った湯浅五助・・。
涙せずにはいられません・・。
この両者の思いに感服した徳川家康も、最後にはその姿勢を褒めたたえて、槍と刀を与えたとされています。

ここにある大谷吉継の墓は、江戸時代初期に、藤堂家が建立しました。

そして、隣にある湯浅五助の墓は、大正5年になって、湯浅五助の子孫が建てたものとなります。

大谷吉継の墓には、お供え物や花束が絶えずあり、訪れるファンが後を絶ちません。


本物志向の高級ストラップ「大谷吉継の甲冑型」あります

大谷吉継(大谷刑部)の墓は米原にもある?

異説では、大谷吉継の首は、家臣・三浦喜太夫が袋に包んで持ち出し、大谷吉継の甥で、従軍僧であった祐玄が米原の地に埋めたとも言われています。
もちろん、一時、埋葬したあとなのか?どうかは不明です。
その話は、下記の大谷吉継のコーナーにて。

大谷吉継の雄姿~関ヶ原の戦いでも石田三成に加勢
湯浅五助と藤堂高刑~関ヶ原の戦いで大谷吉継から介錯を任された忠臣とその思いを守った敵将
平塚為広碑~名門三浦家の誇りを持って大谷吉継と運命を共に【関ヶ原の史跡】
松尾山の小早川秀秋陣跡~登山道と駐車場の紹介【関ヶ原の史跡】
大谷吉治とは~名称・大谷吉継の跡取りも大阪の陣にて豊臣勢として討死
石田三成とは~律儀で算術が得意だった才ある武将の印象も
戸田勝成(戸田重政)の武勇とその関ヶ原での最後
蜂須賀家政と蜂須賀至鎮とは~徳島にて阿波踊りを始めさせた戦国武将
1分でわかる「関ヶ原の戦い」
関ヶ原史跡「実用Googleマップ」~観光のお供に便利な地図

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