寺沢広高とは~関ヶ原では東軍としてまた虹の松原などで慕われた唐津城主

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寺沢広高(てらざわ-ひろたか)は寺沢広政(寺沢越中守広政)の子として1563年に生まれた。
母は不詳。

父の亡きあと、唐津城主として豊臣家の奉行職を務めたようで、30歳のときとなる1592年からの朝鮮攻めにおいては、名護屋城の普請と補給や兵力輸送の任の他、出征する諸将や九州大名への取次を担当し、長崎奉行となった。
1593年には名護屋城付近を含む上松浦郡一帯にて8万3000石となっている。

また、1595年、明からの講和使を迎える際には、寺沢広高(寺沢志摩守広高)が朝鮮へ渡海した。

長崎では、1594年にキリシタンに改宗(洗礼名アゴスティニョ)するも、1597年の日本二十六聖人処刑を契機に棄教している。

1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し2400にて関ヶ原本戦でも戦功を挙げ、天草4万石が加増され合計12万石の栄華を極めた。
天草には富岡城を築城して城代・代官を派遣し、唐津や天草の土着豪族を弾圧させ安定を図った。




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寺沢広高(寺沢志摩守広高)は、質素倹約に務めていたようで、夫人と共に木綿の衣服を好んだと言う。
江戸から唐津に帰国すると、まずは国中の視察を行って、普請方に命じて治水対策を行ったり、税金や労役での不正が無いか確かめたと言う。
唐津焼の産業育成のほか、新田開発においては、現在、国の名勝で日本三大松原のひとつとなっている「虹の松原」の防風林を設けるなど善政が目立ち、地元では官位から志摩様(しまさま)として慕われた。

虹の松原

唐津は麦がよく取れたので、民も5月~6月は麦飯を食べたが、寺沢広高も麦飯を食べたと言い、正月の行事でも塩魚、干し魚を用いさせた。

この倹約して余った資金力にて、寺沢広高は優秀な家臣を召し抱えたため、唐津藩には1000石取りの家臣が40人もいた。

1614年、52歳のとき、大坂冬の陣に参陣。
また、1614年に禁教令が発せられると、広沢志摩守広高は厳しくキリスト教徒へ棄教を迫るようになり、晩年には拷問もしていたとされている。
1633年4月11日に寺沢広高は死去した。享年71。

積極的なキリシタン弾圧を行い、息子・寺沢堅高の代には、1637年の島原の乱が起こる契機となっている。
寺沢堅高は心労により自殺し、寺沢家は改易となった。

その後、播磨・明石城より大久保忠隣の孫・大久保忠職が8万3000石で唐津城に入っている。




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寺沢広高と安田国継の約束

寺沢広高(寺沢志摩守広高)は若い頃に親友の安田国継(安田作兵衛)と立身出世を夢見て「どちらかが国主になったら、一方を10分の1の禄をもって家臣にしよう」と約束した逸話がある。

広沢広高は豊臣秀吉、安田国継は明智光秀に仕えたが、この安田国継は本能寺の変の際、織田信長に手傷を負わせたが、森蘭丸に十文字槍で下腹部を突かれたと言う。
辛くも森蘭丸を討ち取った安田国継であったが、山崎の戦いで明智家が敗れたあと、安田国継は没落して浪人し、天野源右衛門と改名していた。

その後、羽柴秀勝、羽柴秀長蒲生氏郷、森蘭丸の兄・森長可にも仕えたが長続きせず、立花宗茂に仕えて朝鮮にも出陣したが、旧臣らと合わず出奔。
豊臣秀次に仕えたが、うまく行かない人生を送っていた。

その一方で、寺沢広高は順調に出世したため、唐津城主8万石となった際に、10分の1の8000石にて安田国継を召し抱え、約束を果たしたと言う。
織田信長に一番槍を付けたという安田作兵衛国継の槍は「作兵衛の管槍くだやり」として、唐津城の郷土博物館にて展示されている。

安田国継の墓(安田作兵衛国継の墓)は下記の唐津・浄泰寺にある。

安田国継とは~織田信長に傷を負わせたあと森蘭丸を討ち取った安田作兵衛の墓

鏡神社と寺沢広高の墓

唐津藩主・寺沢広高の墓は、鏡神社の一角にある。
この鏡神社(かがみじんじゃ)は鏡山の麓にある神社で、松浦総鎮守鏡神社として松浦三社では一位となる。

唐津・鏡神社

紫式部の源氏物語にもゆかりある神社で、玉鬘の巻にて肥後の豪族・大夫監が玉鬘に宛てた歌に「松浦なる鏡の神」と登場する。

唐津・鏡神社

鏡神社と呼ばれるのは、日本書紀に出て来る神功皇后(じんぐうこうごう)が、住吉大神のお告げにより、お腹に子供(のちの応神天皇)を懐妊している状態で、筑紫から玄界灘を渡って朝鮮半島に出兵した新羅・高句麗・百済を降伏させた「三韓征伐」の際に、神功皇后が鏡山山頂にて戦勝を祈願して鏡を納めたのち、この鏡が霊光を発したことからの名称となる。

唐津・鏡神社

さらに朝鮮から戻って来た神功皇后が、この地で陣痛に襲われた際に、村人が汲んだ湧き水を飲んだと言う。
すると、不思議に陣痛が治まり、宇美の地にて無事に応神天皇を産んだことから、鏡神社は安産の神様にもなっている。

この鏡神社の境内?に寺沢広高の墓があり、神社の一宮左奥から林の中を抜けて行けるように案内図もあった。
しかし、梅雨の時期と言う事もあり、その道は途中から雑草で閉ざされていて、道が無くなっている状態に。
そのため、クルマで北側に回ってみたところ、正式な入口があった。

寺沢広高の墓

下記の地図ポイント地点が寺沢広高の墓の入口(北側)で、鳥居のところに2台ほど止められる駐車場スペースがあった。

唐津城主・寺沢広高の墓も大変立派である。

寺沢広高の墓

ちなみに、鏡神社の駐車場は、東側の県道沿いで、鳥居の右脇となる。
唐津城へはクルマで約5分となるので、是非セットでご訪問願いたい。

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