赤座直保とは~東軍に寝返るも事前通告しておらず所領没収となる

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赤座直保(あかざ-なおやす)は、朝倉義景の家臣・赤座直則の子として生まれたが、生年や母などは不詳。

1573年8月に、織田信長が朝倉氏を滅亡させた際に、織田家に寝返り本領安堵されたのが、文献でみられる赤座直保の初見となる。
その後、桂田長俊(前波吉継)や柴田勝家の元で織田家家臣と見受けられ、不破光治佐々成政前田利家の下に配属されていた。

1582年、明智光秀本能寺の変で、父・赤座直則が討死したため家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えると所領が安堵されている。

1589年10月、越前・南条郡大桐村にて灰焼きにおける営業独占権を認める文書がある。

1590年、小田原攻め(小田原征伐)では石田三成の配下として、武蔵・岩槻城忍城の戦いに参戦した。
この時の戦功により、従五位下備後守に任官し赤座備後守直保と称すると、越前・今庄城2万石の大名に列している。

ただし、小早川秀秋や堀尾吉晴の与力を命じられており、独立した大名とまでは言えない。




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1600年、関ヶ原の戦いでは、西軍の大谷吉継に付属する形で、北国口で戦ったあと600を率いて本戦にも駆けつけた。
小早川秀秋が寝返った場合の備えとして、松尾山の近くに布陣している。

しかし、小早川秀秋が寝返ると、脇坂安治が寝返ったのに続いて、朽木元綱小川祐忠らと共に東軍に寝返った。
石田三成の居城・佐和山城の戦いにも参加したが、事前に寝返りを明らかにしていなかったことから、徳川家康はその功績は認めず、所領を没収している。

ちなみに小川祐忠(7万石)も所領没収になったが、事前に東軍に通じていた脇坂安治(3万3千石)は本領安堵も、同じく寝返ると言っていなかった朽木元綱(2万石)は減封(9600石)で済んでいる。

その後、赤座直保は京にて浪人したが、1600年10月に、加賀・前田利長の家臣となると、松任城代として7000石を知行した。

1606年、越中・大門川の氾濫の検分していた際の渡河中に濁流の中、落馬して溺死した。

子の赤座孝治は永原孝治と改姓し、加賀藩士として存続している。




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関ヶ原のおける赤座直保の陣跡(推定地)

もちろん、色々と諸説あるのですが、関ヶ原で最後に寝返った脇坂安治(1000)、朽木元綱(600)、小川祐忠(2100)、赤座直保(600)のうち、脇坂安治の陣跡はこのサイトでもご紹介致しております。
しかし、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の陣があった場所は「不明」と言うのが一般的です。
伝承や証拠がないからです。
そのため、推測するしかないのですが、脇坂安治らと共に松尾山の麓付近に陣を張っていたのと、寝返ってからは大谷吉継を攻撃していることから、現在の名神高速や新幹線が通過している辺りの「丘」と推測できます。
このページトップの写真にある丘が、概ねその場所です。

小早川秀秋が寝返ったのを受けて、同じく寝返りした脇坂安治の陣跡の石碑はありますが、共に寝返った赤座直保・小川祐忠・朽木元綱の陣跡を示すものは、関ヶ原町にありません。
関ヶ原には各武将の陣跡の史跡がたくさんありますが、加藤嘉明筒井定次寺沢広高生駒一正、河尻秀長、木下頼継など、関ヶ原に参じた武将に関する史跡が、さすがに「すべて」あると言う訳ではありません。
もっとも、良くわからないので、石碑を建てないと言うのは正義でもあります。
伝承も無いと言う事は、ひょっとしたら、そもそも「いなかった」と言う可能性だってありますからね。

ただし、もっと観光客を増やしたいと言う考えがあるのであれば、史料が乏しくても、可能性が高い場所を推測して「推定地」として、各武将別に「陣跡」を示すものを建立するべきだと思います。
いつでも撤去できるように、木の棒に「看板」を付けただけの簡素な案内板でも良いと思います。
そして、推定地とすることで、そこから議論も活発になり、研究が進むのではと考えております。

更には、このように、漏れなく「史跡」として示すことで、関ヶ原に布陣した武将の名前がすべて理解できるだけでなく、更に「関ヶ原」と言う「ブランド価値」も上がり、訪れる戦国武将フォンも増えるのではと推測致します。
私を呼んで頂ければ、比定地の選定に加わりますよ。なんちゃって。

もちろん、元々不明であり、根拠がある訳ではないです。
そのため「推定地」としてご紹介させて頂きました。

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