禅幢寺~名参謀「竹中半兵衛」が眠る竹中氏の菩提寺【垂井の史跡】

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岩手・禅幢寺は竹中氏と竹中家臣の菩提寺で、竹中氏陣屋から北へ進み、JR東海道本線のカードを抜けた先にあります。
禅幢寺は「ぜんとうじ」と読みますが、創建は1494年で、薩摩・金幢寺の僧正碩和尚が開祖との事です。

竹中半兵衛は結核(肺炎?)を患い、羽柴秀吉(豊臣秀吉)より京にて静養するように命を受けていました。
しかし、もう回復の見込みがないと悟ると、座死することは武士の恥じであるとして、戦場で命を遂げたいと、1579年、豊臣秀吉の中国攻めに病を押して出陣しました。
そして、三木城攻めの陣中にて亡くなります。享年36。

その時、竹中半兵衛の遺骸は、現地にて埋葬されましたので、三木市にも竹中半兵衛の墓が存在します。




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1587年になって、竹中半兵衛の子・竹中重門が、三木市の墓から改葬したのが、ここ禅幢寺にある竹中半兵衛の墓となります。
と言う事で、こちらもいわば「本物」であり、名軍師・竹中半兵衛の墓ですので、もちろん丁重にお参りさせて頂きました。

この本堂の左手に進むと墓地があり、その一段高くなった山側に、竹中氏の墓所があります。
囲いなどはないのですが、手作り案内板がありますので、行って見るとわかると思います。

竹中半兵衛の墓

脇にある墓標なども気になるのですが、すぐ右脇には竹中半兵衛(竹中重治)の父・竹中重元の墓もあります。

竹中重元の墓

下記のような形で並んでいます。

竹中半兵衛の墓

下記は少し離れた所にある、竹中半兵衛の弟・竹中重矩(竹中久作)の墓です。

竹中重矩(竹中久作)の墓

墓地には、他にも色々とたくさん、手作り案内板がある著名の方のお墓があります。
1つだけ撮影させて頂いたのは、下記の吉田松陰の友人「長原武」の墓でございます。

長原武の墓

長原武と言う人物は、幕末の大垣藩・陪臣ですが、垂井出身の兵法家です。

禅幢寺の本堂は、江戸時代の1663年に竹中重常が建立した建物です。
竹中半兵衛の像が収められていると聞きます。

なお、禅幢寺には小西行長の墓もあります。
石河備前のご子孫・石河萬吉さまが、不幸が続いたことから、供養の為に昭和18年に建立したものらしいので、正確には小西行長の供養塔と言う事になります。
なんでも当時生まれたお子様が8人連続で育たなかったことから供養すると、9人目は無事に成長したと言います。

なお、この付近にはJR東海道本線が通っていますが、東海道線はもう1本、垂井駅を経由する線路もあり「2つ」もの経路がここではあります。
これは、大垣駅から関ヶ原駅間の直線の線路では、勾配が25‰もあるそうでして、SL機関車の能力では速度が出せません。
その為、太平洋戦争が激化し輸送力増強するため、グルッと周る形で、勾配を10‰に緩和した線路を終戦間際に新設して、米原方面専用にしたそうです。




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なので、ややっこしいのですが、関ヶ原駅から垂井駅を経由して大垣駅に至る「上り線路」は東海道線の「本線」なのですが、逆方向の大垣駅から垂井駅を経由して関ヶ原に至る直線は平行でも「垂井支線」と呼ばれる「支線」となっており、現在でも「普通列車」しか走りません。
米原方面への特急列車や貨物列車などは「本線」となる、岩手の方を走っている迂回線路を使って行くのです。
おもしろいと言うか、珍しいですね。




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禅幢寺への行き方

竹中氏陣屋跡から北へと進み、東海道線のガードをくぐって行きます。
そして、禅幢寺の山門前に到着しますが、車の場合にはやり過ごして、北側から左折すると駐車場があります。
駐車場の正確な場所は、下記のオリジナルGoogleマップにてご確認願えますと幸いです。
もちろん、竹中氏陣屋とセットでどうぞ。

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