小西行長陣跡~セットで訪れる事ができる関ヶ原開戦地近くの史跡

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宇土城主で20万石の小西行長は、そもそも徳川家康に接近しており、会津征伐の際には大阪に残留するように命じられていました。
しかし、石田三成が挙兵すると聞くと、それに応じて西軍に加わったのです。

1600年9月15日、関ヶ原の戦いでは6000を率いてこの北天満山の麓に布陣しました。

開戦となると、北天満山から烽火(のろし)をあげて味方に報せ、東軍の田中吉政筒井定次らを相手に奮戦しました。

西軍できちんと戦ったのは、大谷吉継宇喜多秀家、小西行長、石田三成くらいです。




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大谷吉継が自刃したと知ると伊吹山の山中に逃げ込んだ小西行長は、9月19日に糠賀部村にて、落人狩りを指揮していた関ヶ原の庄屋・林蔵主に発見されてしまいます。
小西行長は、自分を突き出して褒美をもらうように林蔵主に勧めたとされます。

これに対して林藏主は下記のように言ったといいます。

それでは武士の恥でしょうから、ここで切腹なさいませ

しかし、小西行長はキリシタンであることから自害が許されないのです。
そのため、雑兵の手に掛かるくらいならと名乗り出たと言いました。

小西行長の覚悟に感服した林蔵主は、関ヶ原も治めていた東軍・竹中重門の家臣である伊藤源左衛門・山田杢之丞に相談します。
そして、小西行長を徳川家康が入っていた草津(滋賀県草津市)・村越直吉の陣へと送り届けました。
この時、褒美として黄金10枚を授かったそうです。
その2日後には石田三成が捕まり、その翌日には安国寺恵瓊が捕縛されました。

こうして、10月1日、小西行長は、石田三成・安国寺恵瓊と共に京都の六条河原にて斬首となります。享年46。

イエズス会の史料によると、小西行長の遺骸は、どこかの教会に引き取られたそうですが、埋葬場所などは不明です。

ちなみに、一族と思われる小西清左衛門は関ヶ原で討死。
九州に残った小西長貞(小西若狭守長貞)は、麦島城から宇土城への援軍を率いた際に、加藤清正勢と交戦・敗走し切腹しています。

小西行長の陣跡は、関ヶ原古戦場の「開戦地」の石碑がある柴井地区「西田運動公園」の奥となります。

開戦地石碑のすぐ東に梨木川が流れており、その川の東沿いに公園の無料駐車場(20台)があります。
駐車場の場所は、下記の地図ポイント地点です。

上記の駐車場までの道路は、狭い道もありすれ違いはできませんが、舗装されており、普通自動車であれば問題ありません。

車を止めて、橋を渡ると関ヶ原合戦開戦地の石碑がある公園となります。

その開戦地の石碑を見学したあとに、そのまま公園の中を「北」へと歩きますと、山肌の下に「小西行長の陣跡」の石碑が建っています。

石碑が実際にある正確な場所は、当方のオリジナル地図であるGoogleマップにてご確認賜りますと幸いです。

[clink url=”https://sekigaharamap.com/googlemap/”]

駐車場に車を止めて、決戦地と小西行長の両方を見て、観光所要時間は約10分といったところです。

下記の写真に写っている山は伊吹山方面でして、小西行長や宇喜多秀家が逃げ込んだ方角となります。

伊吹山方面

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