小川祐忠とは~関ヶ原のあと相模・津久井に移り住んだのか?【関ヶ原の寝返り武将】

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小川祐忠(おがわ-すけただ)は、小川伯耆守入道の子として生まれましたが、生年は不明ですが、1550年生まれ?と推定されます。

この時、父・小川伯耆守は六角氏の家臣て、佐和山城主ですので、生年が確かだと佐和山城で生まれた可能性があります。

戦国大名に成長した浅井長政は六角家と対立すると、1560年に小川伯耆守入道は佐和山城を追われて、小川城に入り、浅井家に臣従したものと推測致します。

1570年、姉川の戦いで浅井勢は敗北し、1571年には、織田信長の浅井攻めとなると、8月に志村城が佐久間信盛、中川重政柴田勝家丹羽長秀によって陥落します。

そして、小川祐忠は7人も織田家に人質を出して降伏し、吉田重勝、池田伊予守、後藤喜三郎、多賀新左衛門、阿閉貞征父子、久徳六左衛門らとともに織田信長の旗本となりました。

その後、浅井長政は1573年の小谷城の戦いにて切腹しました。




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1579年に安土城を築城した際には、瓦奉行として堀部佐内、青山助一とともに功績を挙げ、織田信長から茶会への出席を認められています。

織田信長からは大身へ取り立てられる沙汰も受けていましたが、1582年、本能寺の変が起こります。
この時、小川祐忠(33歳)は明智光秀に従っており、山崎の戦いでも明智勢として戦いました。
敗北すると、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に降伏しています。

清洲会議では、長浜城が柴田勝家の所領となったことから、その傘下に加われ、柴田勝家の養子・柴田勝豊の家老となっています。
しかし、賤ヶ岳の戦いでは、大谷吉継の調略を受けた柴田勝豊が、羽柴秀吉に寝返った為、羽柴秀吉勢として戦いました。

柴田勝豊が病死すると、小川祐忠は羽柴秀吉の直臣となり、小牧・長久手の戦いでは250を率いて参陣し、羽柴秀次の中軍として戦っています。

正室には一柳直高の娘を迎えています。

1590年、小田原攻め(小田原征伐)にも参陣し武功を立て、正式に従五位下土佐守に叙任されます。

1592年、朝鮮出兵では朝鮮へ渡海し、伊達政宗とともに浅野長政を救援するなどの手柄を立て、1598年、伊予・今治7万石を与えられ、国分城(国分山城)を居城としました。

醍醐の花見では三番茶屋を立て、茶室内に狩野山楽や長谷川宗仁らに馬や鷹などを描いた襖絵を描かせたと言います。

その後、小川祐忠(小川土佐守祐忠)は、太閤検地にて総奉行・長束政家のもと務めを果たしています。

1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に与して北国口の守備を担当します。
その後、大谷吉継らと関ヶ原に転じました。

しかし、松尾山小早川秀秋が寝返り、更には脇坂安治も寝返ったため、朽木元綱赤座直保と共に東軍に寝返りました。
家臣の小川甚助の郎党である樫井正信が、西軍の平塚為広を討ち取っています。

その後、佐和山城攻めにも参加しましたが、戦後、徳川家康から事前に内応を示していなかったとして所領没収となりました。
この改易は、嫡男とされる小川祐滋が石田三成と親しかったからとも言われますが、恐らくは過去に何度も寝返りを繰り返していた事が要因だと思われます。

改易後は京にて隠棲し、程無く1601年に没したとされています。享年52。

子の小川祐滋(おがわ-すけしげ)は、萬屋平右衛門と名乗り「両替商」として大成功を収め豪商になったそうです。
ただし、これは別の子である千橘とする説もあるみたいですが、二条城や京都所司代に会う為の大名の陣屋(宿舎)とにる「二条陣屋」の管理を任されるほどであったとされます。




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相模の小川氏

相模・津久井郡には、関ヶ原のあと、小川土佐守祐忠が落ちて来たと伝わる「小川家譜」が残されています。
この小川家からは、小川源左衛門が大坂の陣にて功績をあげ、徳川家の旗本として召し出されますが、なんと、小川源左衛門は、それを断って、相模湖の東にある尾房山一帯の土地をもらい受けたとあります。
そこに、小川土佐守祐忠を葬り、子孫は尾房山麓の若柳村にて続いたと言います。

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